「名もなき介護」に名前をつける理由。
問題は、そこに名前がつかないと、問題だと意識されません。
「名もなき家事」
だから、「名もなき家事」ということが話題になったときは、もちろん他人事でないにしても、「名前はついていないけれど負担になっている家事」があることが明らかになっただけでも、意味があると思いました。
この調査の中で、こうした項目がありますが、このことが、「名もなき家事」を実際にすることの負担だけではなく、どれだけその行為をしたとしても、そこに「名前がない」だけで、家事だと思われていない、とすれば、その負担感は、さらに増すのではと思いました。
それは、軽く見られるよりも、ひどい、無視ということをされてしまえば、さらに負担感が大きくなるのは当然だからです。
私も、夫と言われる立場の人間ですので、妻から見たら「名もなき家事」を理解していないはずですので、このことに関しては、あまり語る資格がないかもしれませんが、この「名もなき家事」という考え方は、家族介護にも当てはまることだと思いました。
つまり「名もなき家事」があるように、一般的には「名もなき介護」があると感じてきました。
そのことを、今回は考えたいと思います。
私は、介護者への心理的支援を専門とする臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「国民生活基礎調査」
当然ですが、介護時間に関する調査は、公的機関でも行われています。
2022年では、こうした調査分析結果が公表されています。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa22/dl/05.pdf
(厚労省『国民生活基礎調査』 介護状況の状況)
実は、この国民生活調査の平成22年の調査でも、この介護者に関する部分は、ほぼ同じ文章になっています。
ただ、この平成22年と、2022年という12年経った統計を比べてみると、例えば、要介護5の介護時間の「ほぼ終日」は、「51.6%」ですが、2022年には、同じ数字が、「63.1%」です。
他の要介護度との比較などもあるので、一概には言えませんが、これだけ数字が上がっているということは、この12年の間に、明らかに介護負担が重くなっているはずですが、そのあたりの分析はありませんでした。
「介護時間」に関するギャップ
また、こうした調査で、基本的にいつも疑問に思うこともあります。
この統計でもアンケートでの項目があって、それを選ぶ、という方法が取られていると思われるのですが、介護時間の最も長い選択肢が、「ほぼ終日」になっている点です。
しかも、2022年の調査で、要介護5の場合でも、約4割以上の介護者が「ほぼ終日」よりも、短い介護時間だと答えているようですが、これは、実際に介護をしている介護者との実感とはかなりギャップがあるように思えています。
この書籍が出版されたのが1996年なので、認知症ではなく、痴呆性老人という表現になっていますが、この「24時間拘束される」感覚の方が、家族介護者にとっては、共感できるように思います。
それは、自分自身が介護者であったときもそうでしたし、他の家族介護者と話をしても、介護は24時間、というのは共有できる感覚でした。
家族介護者の個別の心理的支援として、介護者相談を心理士(師)の仕事として始めさせてもらい、周囲の方々のご尽力もあり、何より、ご利用していただいている介護者の方々のおかげで、11年目になりますが、その経験の中でも、介護は24時間、という感覚は共通しているという印象です。
では、なぜ、公的な調査などでも「介護は24時間」ではなく、長くても「ほとんど終日」なのでしょうか。
それには、食事、排泄、入浴、移動などといった「名前のついた介護」だけではなく、介護者の間では当然の前提として共有されている「名もなき介護」が広く知られていないだけではないでしょうか。
そんなことを明確に思うようになったのは、約10年前でした。
「名もなき介護」
この「名もなき介護」について、代表的なものとして「待機」と「見回り」については、すでに、この記事で詳しく書いたので、やや繰り返しになる部分も多いかと思いますが、この「名もなき介護」に関しては、2017年の心理臨床学会で、口頭発表をしました。
その際は、自分自身が介護者であったので、52日間、自分の介護行為を全て記録したところ、最も長い時間を占める介護行為が「待機」で、最も回数が多いのは「見回り」でした。
その後も人前で話す機会があれば、この「待機」と「見回り」については伝えさせていただくようにしてきました。
ただ、当然かもしれませんが、介護行為の中で「待機」と「見回り」という言葉をつけているのは、まだ私だけのようなので、なかなか広まっていかないので、こうして伝えさせていただこうと思っています。
「待機」
まずは「待機」からです。
この言葉自体は、一般的な言葉です。
介護行為の「待機」も、ほぼこの言葉通りです。
特に、在宅介護で、要介護者が家族で、介護を続けている場合、要介護者が家にいる間は、ずっと緊張が続いているはずです。
同じ部屋にいるときは当然ですが、他の部屋にいて、ドアが閉まって、見えない時も、たとえば1階と2階など違う階にいるときでさえも、介護者は、要介護者の家族に対して、ずっと意識が向いています。
それは、極端にいえば、同じマンションの違う部屋にいる時でさえ、その緊張状態は続いているはずで、それは何のためかといえば「準備を整えて機会の来るのを待って」いるからです。
その「待機」状態を続けているからこそ、ちょっとした物音、ほんの少しの違和感に気がついて、要介護者のもとに駆けつけられるはずです。
それは、介護を続ける時間、もしくは年月の中で、あと何秒か早く駆けつければ、転倒を防げたかもしれない。排泄介助が的確にできたかもしれない。そんな後悔にも似た思いを、おそらくは介護をする方々であれば誰もが持つはずで、そうした経験が重なれば重なるほど、その「待機」の集中力は増していくと思われます。
「待機」の負担感
もう少しわかりやすい例でいえば、特定のどなたか、というのではなく、かなり一般的な話として、介護が必要な家族がいる家庭で、ご夫婦が同じ寝室にいて、就寝していたとしても、何か少しの物音などで起きて、要介護者の元へ行き、適切な対応ができるのは、ご夫婦のうち、いつも介護をしている方で、そうではない方は、隣の配偶者が起きて動いても、気がつかずに寝続ける、ということはよく聞くことでもあると思います。
この場合は、すぐに起きた人は、介護の「待機」状態にあったから、すぐに対応でき、大事に至らなかった、ということなのでしょう。
それは、もう1人の配偶者の方にとっては、いつも大変なことが起きるわけがないのにという思いもあって、場合によっては、気にしすぎ、という注意をしてしまうかもしれませんが、それは、介護者にとっては、とても腹立たしく傷つく言動であることも間違いないと思います。
そして、「待機」状態にある介護者は、ずっと緊張状態にあるから、こうした行動が可能になり、要介護者にとってはより良い介護ができているはずなのですが、介護者の負担感や負担は、とても重いものになっているはずです。
でも、こうした行為も「待機」という介護行為であると、介護者以外の方に少しでも理解してもらえるようになれば、こうしたご夫婦で、片方だけが起きるような場合も、寝ていた方は、「待機」していないから起きられなかった、ということがわかってもらえるので、気にしすぎ、などといった見当はずれの批判をすることもなくなりそうです。
さらには、これも特定の誰かというのではないのですが、家族を介護していて、同じ家に住んでいて、普段はそれほど介護が必要でなく、だから、介護者は他の部屋にいて、介護とは関係ないことをしている場合があります。
これに対して、直接関わっていない人たちから、「介護と言っても、何もしていないのではないか」と思われることもあり得ます。
そのことによって、介護者は心ないことを言われたり、また言葉にしないまでも、「何もしていないのに」と見られることによって、傷つく可能性もありますが、もしも、それは、「何もしていない」のではなく「待機」という介護行為であると理解されれば、介護者の負担感も随分と軽減されるのではないか、と考えています。
そうすると、それまで「名もなき介護」であった行為に「待機」という名前がつけられたことになります。それは、家族介護者にとっては、理解が進むことにつながり、やはり、負担感が減ることになると思われます。
見回り
私自身が52日間の介護行為を全て記録したときに、最も長い時間を占めていたのは、今述べた「待機」だったのですが、最も多い回数行っていた介護行為は「見回り」でした。
これは、一般的には使われている言葉で、あちこちに注意を払って、何か事件などが起きないような予防行為に近いのだと思います。
ただ、この「見回り」がどうして、介護行為と言えるかを説明するには、もう一度「待機」のことから話をした方がわかりやすいはずです。
特に在宅介護をしている場合、食事や排泄など、直接的な介護行為をしていない時でも、もしくは、別の部屋にいたとしても、常に要介護者の家族への注意力は途切れることがなく、その状態を「待機」と呼ぶことにしています。
それは、常に集中力が続いていて、だから、基本的には消耗することでもあるのですが、本人以外からは、介護とは無関係に見える時間でもあるのだと思います。この「待機」は、まだ広くは「名もなき介護」ではあるのですが、特に在宅介護の全てを支える大事な介護行為だと考えています。
そして「待機」している介護者は、とても小さな物音や、気配の変化などにとても敏感で、特に要介護者の家族とは別の部屋にいるときなどは、鋭敏になっていると思われます。
すると、何かを感じたときは、例えば夜中で、今は要介護者の家族が就寝しているはずであっても、その部屋に向かって歩いて行き、そっとドアなどを開けて、様子を見ることになります。
多くの場合は、要介護者の家族は、何事もなく、静かに眠っていたりするのですが、時々、起きて何かをしようとしていて、少し危険が近づいていたり、ひどいときは、ベッドから転落したり、といったことが起こっています。
そうした時は、もっと早く気がついていれば、前もって防げたのではないか。介助することができれば、もっとスムーズに対応できたのではないか、といった後悔もありますが、何かが起こっているときは、とにかく、適切な対応をするしかありません。
そうやって、具体的な介護行為をしたときは、名前がついた介護行為になるのだと思いますが、多くの場合は、要介護者の部屋を見に行っても、何事もないので、ちょっと安心し、それからまた自分の部屋に戻る、ということが繰り返されます。
「見回り」という名前をつける意味
この、様子を見にいく、という行為には名前がついていなかったので、「見回り」という介護行為としての名前をつけることにしました。
すると、一見、何もしていないこの行為は、とても多く行われていて、自分自身を調査対象とした、かなり個人的な調査に過ぎないのですが、52日間の期間中、1日で平均で約20回も行われていました。
何か声がしたような気がして、夜中に義母の部屋を見にいくと、それは、外から聞こえてネコの声だったことも少なくありませんでした。何か物音がして、立ち上がることもほとんどできない義母が動き出してしまったのではないか、と不安になって階段を降りたら、風の音だったりすることもありました。
ただ、そうしたむだとも思える行為があったからこそ、幸いにもそれほど大きな事故などもなく、19年間の介護を続けられたのではないか、という実感はありますし、この「見回り」という介護行為をするのを可能にしているのは「待機」状態の集中力と緊張感があってこそだと思っています。
こうして、今までは「名もなき介護」であった介護行為に「待機」と「見回り」という名前がつけられることで、介護者の日常がより理解しやすくなると考えられますし、こうした介護者の思いが、よりリアルに感じられるのだと思います。
繰り返しの引用になりますが、この介護者の辛さは、当事者ではないと、特に「いつまで続くかわからない」拘束感に閉じ込めら続ける部分は想像しにくいとは思いますが、今回の「待機」と「見回り」を介護行為として考えるようになると、この「24時間拘束」の感覚は、少し理解しやすくなるかと考えられます。
そのように、1人でも多く、少しでも正確に、介護者の心理状態を理解する人が、もしくは理解しようとする人が増えることで、介護者の負担感は減少するのではないかと思っています。
今回は、そのために「名もなき介護」に名前をつけたことを、繰り返しお伝えすることになりました。
少しでも考えてもらえたら、幸いです。
疑問点などございましたら、コメントしていただければ、さらにありがたく思います。
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