『思い込み』試論④~「四句分別」の衝撃~
龍樹の『中論』をどう読むかは、たぶん読み人の力点の置き場によって異なる。
学者であればそのように読むし、信徒であればそのように読む(当たり前だけど)。
ぼくはおそらく哲学探求としての読み方と、障害のある方の支援者としての読み方を重ねながら読んでいるのだろう。
そうなると『中論』も、どの一説に注視して読む込もうとするかで、ずいぶんとその後の解釈が異なっていくことは、半ば当然の成り行きなのかもしれない。
ぼくがひときわ強い関心ももったのは、18章「アートマンの考察」八だった。
「一切はそのように〔真実で〕ある」、また「一切はそのように〔真実〕ではない」。「一切はそのように〔真実で〕あり、またそのように〔真実〕ではない」。「一切はそのように〔真実で〕あるのではないし、〔真実〕ではないのではない」―これがもろもろのブッダの教えである。
仏教学では四句分別と呼ばれる、独特の語法である。
帰宅途中の電車の中でこの一説を読んだとき、思わず声をあげてしまいそうになったが、まわりにいた女子高生たちにアブナイおじさんと勘違いされないよう、必死にこらえた。
もしかしたら、僕たちがかんがえることができることは、この4つの語法がすべてなのではないか?
もっと言えば、僕たちが言語を用いて思考せざるを得ない以上、どれほど言葉を紡いでみてところで、結局は思考されたことがらは、この4つの語法のいずれかに過ぎないということになるのではないか?
なにか思考のとんでもないカラクリに触れたような気がした。
ここでふっと想起されたのが、「思い込み」に振り回され、生活が成り立たなくなっている利用者のみなさんの姿。
四句分別を用いながらみなさんのかんがえていることを整理してみたら、自分の「思い込み」をいくぶん対象化できて、ちょっとは生活がラクになるのではないか?
ならばこの四句分別をもっとわかりやすいようにして、一緒にわいわいと楽しめるような形式にできないものだろうか。
『中論』の教えと利用者さんの苦悩が、また一歩近づいた気がした。
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