精神科医、「君の名は。」(後編)
【精神科医、立ち会う】
定刻通り鷹山病院に2名の警察官が姿を現した。
身元特定のため、鷹山花子の指紋を採取することが目的だった。
鷹山花子を連れてきた警察官たちは制服を着ていたが、今回は2名ともスーツ姿で病棟を訪れた。
入院患者の中には警察を歓迎しない患者が多数いる。
具体的には「秘密警察に追われている」という追跡妄想に悩む男性、薬物依存で治療中の若者、酩酊して警察を殴ったアルコール依存症患者などがその例である。
このため病院から「可能なら制服以外で来院してほしい」と要請したのだ。
「先生、先日は朝からありがとうございました。こちらは鑑識官の◯◯です」
スーツ姿の男性が先日会った警察官と同一人物かは分からなかったが、紹介されたもう一人の男は四角いジュラルミン製の鞄を肩にかけ「いかにも鑑識官」というような格好であった。
「指紋採取ですが、先生も立ち会って頂けますか?その…、精神科病院でやったことがあまりないので...」
「はい、もちろんです」
精神科医は、立ち会うことにした。
「それでは鷹山花子…、えーっと保護された女性を連れてきますので少々お待ちください」
看護師に声をかけ鷹山花子を診察室に案内した。
おずおずとしながらも鷹山花子は警察官の指示に従った。
手慣れた様子で鑑識官は顔写真を正面、左右側面、斜め上、そして全身像も撮影した。
「それでは、一本ずつ指にインクをつけ、ここに押してください」
テキパキと指紋採取の準備を整えると、鑑識官は優しく促した。
差し出された黒い朱肉を覗き込むように凝視した後、鷹山花子は指定された用紙に通り一つ一つ指紋を押していった。
精神科医もはじめて知ったが、鑑識では指紋だけでなく掌紋(手のひらの指紋)も採取する。
数回に分けて掌紋を取ると彼女の手はアライグマの掌のように真っ黒になった。
警察官から差し出されたアルコールティッシュで手を拭いた後、鷹山花子はペコリとお辞儀をしてそそくさと診察室を退室した。
「これで彼女の身元は分かりますかね?」
精神科医の期待に満ちた表情とは裏腹に、警察官は腕を組み首を少し傾けてこう答えた。
「もしこの人が過去に犯罪を犯しているなら身元は分かりますが、何て言うか…、犯罪をするような感じの人ではないで…。寧ろ写真の方が手がかりになると思います。それも捜索願いが出されていればの話ですが...」
たしかに警察官の言う通り彼女はどう見てもその辺のスーパーで買い物をする普通のおばさんで、犯罪に与する様な人物には見えない。
「(警察が介入しているため身元はすぐにわかるだろう)」
精神科医の期待は、脆くも砕かれようとしていた。
【精神科医、芽生える】
精神科医は週2-3回は鷹山花子の診察を行った。
しかし、毎回体調や気分についてたずねても、
「…、特に変わりません」
何か思い出したかとたずねても、
「…、何も思い出しません」
…と、彼女の全生活史健忘が改善する兆しはなかった。
入院初日の不眠、2週後の腰痛以外には訴えはなく、頓用以外の処方はされなかった。
1週間ほど前に警察から連絡があったが、指紋照合の結果、彼女の指紋と合致する記録はなかった。
また行方不明者の素策願いのリストからも有力な情報は得られなかった。
「(入院させたはいいが、どうしよう…)」
精神科医の心配をよそに鷹山花子は新たな環境に適応しつつあった。
入院中に日用品や衣類も揃え、ベッドと床頭台しかなかった病室に生活感が漂い始める。
作業療法にも参加し、レクレーションや創作活動にも集中している姿が見られた。
主治医としては患者が病棟生活に馴染むことは歓迎すべきことであるが、精神科医の中に違和感が芽生えた。
「(そう言えば、誰とも雑談をしないな…)」
実際、看護記録には「自室で過ごすことが多い」「口数が少ない」「他患との交流に乏しい」などの表記が目立った。
作業療法の記録にも、「創作活動には黙々と取り組み、またレクレーションも楽しんでいるように見える。しかし、グループワークではほとんど発言せず、促しても黙り込むことが多い」とあった。
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