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「山懐の女たち」 第4回「宇都宮貞子」 正津勉

その年十月初め、長野でとある所用があった。この地に来て山に遊ばない。なんて手はない。とはいえ休みは二日しか取れない。頸城(くびき)アルプスの二峰、火打山(二四六二㍍)と、妙高山(二三〇〇㍍)へ。行けたらと、念じていた。問題は台風の接近だ。しかし行くべえ、せめて一つはさ。そこにはある女人の存在があったのだ。
 宇都宮貞子。当地に住まい山野を歩きへめぐり、草や花や鳥や星の話を紡ぐ、女史の美しい文章に魅せられたからだ。
 当朝、平日も月曜、暗く重苦しい空。ときに九州方面を台風急襲の緊急警報もあり。笹ヶ峰登山口から高谷こうや池まで三時間強の行程。登りを同じにする誰もなく、木道を踏んで二十分ほど行くと黒沢。黒沢から十二曲りの急坂を二時間近く富士見平。しばらく雲を被った火打山の稜線の裾がのぞき、高谷池ヒュッテの三角屋根があらわれる。この間、わずかに三組のパーティと行き交わしたきり。みなさん声を掛けてくる。「今晩あたりから、警報知っています、台風がきますよ、超大型らしいです」
 午後三時過ぎ、ヒュッテ着。きくと宿泊は二名あるが、高谷池畔のテン場は三十張りの広さに当方一張りきり。ちょっと寂しくも恐くもある。むろんのこと台風が直撃とあれば小屋に避難するつもりだ。この時間なら山頂往復は可能だ。しかし生憎の天気である。
 早速、池畔のいちばん絶景スポットに、設営。この池がなんとも美しい。水面のモウセンゴケの秋色のそのよろしさ。雲が掃かれるにつれ、紅や黄色を纏い、みせてくれる山の肌。貞子女史がここに遊んだのは梅雨時。コピーしてきた文をなぞりなおす。

 池の間にはモウセンゴケが一杯で、歩くとこの毛氈もうせんはじくじくと水漬けになる。浅い、黒い池に沈んだ葛玉くずだまの中で、クロサンショウウオがメダカほどにかえって動いていた。山近い日に、池は一つ一つキラキラと金に輝き、湿原の若緑が映えてひときわあざやかだ。
(「高谷の池の一夜」(『野山の十二カ月』評論社 一九八一)

 若緑と、紅葉と。時季は違うが、まったく変わらなく、池畔は美しい。そしていま一つのポイント、高谷池から木道で十五分ほどさきの地塘が点在する湿原、天狗ノ庭。さながら天上の楽園というべきか、なんてそんな、まことに陳腐な形容しかできない。ところが女史はというと繊細をきわめる。

  モミジカラマツの白い花火や、硫黄いおう色の提灯をかかげたアオノツガザクラ。青白い三叉さんさほこを立てたコバイケイソウの群落ぐんらくも続いた。天狗てんぐの庭の岩群(むら)は半ば雪に埋もれているが、その下の沼地にはコケモモの薄紅の花が拡がり、サギスゲが一面に白い。沼のふちの林のあちこちで、メボソが絶え間なしに鳴く。ルリビタキも鳴く。ウソの口笛も時々交じった。

 いまそれらの花たちは咲くことはない。それぞれひっそりと枯れ色をのぞかせているだけ。さっきから鳥たちの囀りはかしましいばかり。だがその声をひとつも聞き分けられないのが恨めしい。しばらく暮れゆくそこらを歩きまわる。寂寞たる雲に隠れる山巓。ぜんぶまるごと壮大な山景を一人占めにしている。感動である、文句はない。するうちに急に寒くなってくる。かたかたと歯の根があってない。
 寒い! 池畔に急ぎ戻ってテントに潜り込み一息。とするうちに寝入っていて、どうやら二時かそこらだか。とんでもない吹き降りに眠りを破られてしまう。バタバタと、テントが滅裂にはためく、バタバタと。ひどい大烈風の猛烈な攪拌は三十分ほどか。 目覚めると六時。いまだ風は凄まじい。八時、ようやく小康状態になって、出発。だいぶん風は弱まり加減だがまるで釜を被せたように黒くぶ厚い群雲がみっしり。テン場から空荷で大荒れの道をゆく。見通しの悪い稜線沿いの登り。急な木道階段が滑る。一時間半の行程を二時間余り。
 火打山頂上。ぐるりと目路のかぎり妙高山をはじめ、雨飾山、黒姫山など周囲の稜線、また槍穂高の峰々まで、はたまた富士山さえも視界にするはず。しかるにいったいは白っぽくけむるばかり。五里霧中。いたしかたなく登ってきた道をただもう下ってゆくしかない。そうしてぶつくさと黙りこくり濡れてどれほど下ったものやら。みるともう天狗ノ庭のあたりだ。となんとも信じられない。これぞまさに台風一過ということか。まるでそれこそドーム球場の円屋根が全開するぐあいといおうか。
 天晴れ、光降る……。 行く手に黒沢岳の上に頭を覗かせはじめる妙高山の姿の麗しさ。そしてまあ、びっくり水面に美しく火打山から影火打また焼山が映っている、ではないか。さまざまな形の地塘にきれいに紅黄を写しこんで。美しいのだ、麗しいのだ。そのことに関わって思うのである。じつはさきの女史の一文にこのような真率な吐息があったのを。

  ――しかし、こんな美しいものを見ていいのだろうか。神さまが大事に隠しておく場所を。こうして人間が見つけ出しては汚して行く――。
 すべて、人が見るには美しすぎ、きよらかすぎる、と思われた。

  オーバーでない、ただもうただ、ピュアなのだ。さいごに美しい景をもう一度しかと眼に焼きつける。そしてやおら踝を返し歩きだしていた。撤収。十二時、昼食。もうこの時間では妙高山は断念すべきだ。残念。だけど帰りは黒沢池から下りたい。早速、早足で笹原やオオシラビソの林を通過、アップダウンを繰り返すこと小一時間、茶臼岳。

 行く手には妙高山。なんたるその巨乳形のてっぺん! 振り返れば火打山。なんたるその美尻形のてっぺん!
 ほどなく六角形の青い丸屋根が印象的な黒沢池ヒュッテ。ここで一休みしてコーヒーでも頂戴したい。ついでに広々とした黒沢湿原をのんびり散策したい。だけど時間がない。ヒュッテを右に折れて下りてゆく。ハイペースで紅葉の見事なトンネルを……。(2005・10)
拙文「光降る 火打山」(『山に遊ぶ 山を想う』茗渓堂 二〇一四)より改稿引用。

 宇都宮貞子(一九〇八~九二)、長野市生まれ。旧制 長野高等女学校卒。東京女子大学中退。主要な著書に『草木覚書』(草木と民俗の会 一九六八)、『草木ノート』(読売新聞社 一九七〇)、『山村の四季』(創文社 一九七一)、『草木おぼえ書』(読売新聞社 一九七二)、『たんたん滝水 村の自然と生活』(創文社 一九七八)、『雪の夜咄』(東京新聞出版局 一九八〇)、『植物と民俗』(民俗民芸双書 岩崎美術社 一九八二)、『私の草木誌』(筑摩書房 一九九一)など多数。
 出生、家族、経歴など、仔細一切不詳。明治生まれで大学入学、であれば裕福で知的な家庭の出身と想像される。貞子さんが植物方言を集め記録し始めたのは戦後、四十歳前後のことだと。それ以前、戦前、戦中、また以後も果たしていかような生活を送られたのかは、ご本人が明かしていなければ余人には知るすべもない。またその著述を散見していると、古事記や枕草子といった古典に造詣が深いことが垣間見られるのだが。どのようなきっかけで植物誌採録に踏み切ったのか、それらの資料も手許にはない。
 まずもってこの女人については旧い山の本雑誌でその名を見るだけで不明もよろしかった。まったく、ぜんぜん。それがたまたま火打山行に際し初めて『野山の十二カ月』の前掲文を読み感嘆させられた。以来、当地への山行のつどこの本を開いてきた。雨飾山、黒姫山、飯綱山、高妻山……。
 むろんこの一冊のみならず、前記の植物誌関係本を図書館で借りて、そのつど枕元にそろえた。しかしながら植物無知の当方にはお手上げで積読状態よろしいさま。正直なところ、拾い読みも、眠り読みに、終始したといおう。
 たとえば『草木ノート』。A5版三〇二頁、二段組み。山の文芸誌「アルプ」に同名のタイトルで昭和三十四年以来十年以上にわたって連載執筆した。四季別に挙がる六十三篇。堂々たる内容。「序」が串田孫一。「跋」が山口昌男。
 「……丹念に築かれた植物民俗学で、これほど教えられることの多く、かつ酔わされる文章は今のところ私は他にしらない」(串田孫一)
 「宇都宮さんの伝達する民俗的世界のイメージは極めて、鮮明であり、フォーク・ヒュマーとでもいうべき、人間の行為の具体性を通してみた自然=世界がそこには開示されている。どの項目一つとっても実に愉(たの)しい」(山口昌男)
 ここでその二つ三つ選んでおよび、もってご免とされよう、としたい。
 一つ、これがいい。「春」の章、二篇目「あまんじゃく ――オキナグサ」。貞子さんは、書いている。

 明科あかしな町(東筑摩ひがしちくま郡)のIさんの話に、「ネブノキの花は、和尚おつさんの払子ほつすみたいだ。チゴチゴの実の時とおんなじだ。チゴチゴはチゴノバナともいって、花は赤い」と。
 チゴチゴは、よそでも広くいうらしいが稚児ちごで、花後の白毛を、子供のおかっぱ髪に見たものだという。共通語のおきなぐさとは反対の見立てである。

 そうしてその白毛を抜いて女の子のまげを結って飾ったり、また毛をまとめて丸め毬にしたりして遊んだと。そうかと野沢温泉村(下高井しもたかい郡)では「アマンジャク」というとか。茅野市では、「チンコンバとも、オッカブロノチゴンバとも」いう、「オッカブロは禿かむろで、チゴンバは稚児か」として、貞子さんは、嘆じる。

 いまは人間と自然との間に厚い壁ができてしまって、なんの交流もないが、古くはそこに区別がなかった。われわれには、この長ったらしい名がめんどうくさく、棒読みに呼び捨ててしまうが、昔の人は愛情をこめて、ゆったりと歌うように「おっかぶろーの、ちんごんばー」といいかけたのだろう。まるで孫に向かって、「このおかっぱ坊主や!」というように。

  いやどういう、なんとなんとも素晴らしい言葉ではないか、ほんとこれは。というところでそうである、いつかこちらが偶然にもこんな拙文をものしている、つぎのようなものである。

 ちおんばのおっかぶろ
ちおんばのおっかぶろ/髪結ってどこへいく/姉っこの迎えに/姉っこがいなくて泣いてきた/えんえんえん
北原節子「ちおんばの山 」(「アルプ」昭和四十四年六月)

  漢字で翁草。キンポウゲ科の多年草。名前の由来は全体を覆う白色の長毛から。春先、里山を歩いていてこの花に出会すとギクリとする。なにやらどこだか昔話に出てくる背の曲がった爺婆さんみたいなのだ。ほんとなんと異なる姿であることか。
 葉は羽状。暗く深い赤紫の六弁に裂ける花。ちょっとゾーッとしない。春だというのに悦ばしくない老いたようす。ついては昔もむかしに読んで忘れられない文がある。「ちおんばの山」がそれだ。
「ちおんばというのはオキナグサのことである。信州の伊那で覚えた方言だが、ほかでもちおんばと呼ぶところがあるかもしれない」
 北原さんは幼い日に伊那谷は「水無山」ではじめて目にしたこの不思議な花を懐かしく偲んでいる。ここに掲げる歌は母の口から耳にしたもの。北原さんは書いている。
「これを、翁になってしまった花の先に唾をつけて嘗めながら、歌うのだという。唾をつけて嘗めるのは、田舎で母親たちが櫛に唾をつけて娘たちの髪をすいていたその感じである。/ちおんばというのは、どうやら稚児花なのではないだろうか。おっかぶろとは、禿かぶろのこと、幼女のお下げ髪である。白い髪が風になびき揺れるさまは、たしかに、どこか幼女の泣く姿を思わせる」
 翁草をして、稚児花とみる。なんと素晴らしい。なんとも哀れにして慈しみにみち温かくある目であろう。今度、ちおんばに会ったなら、ぜひとも聞いてやらにゃ。

おまえは翁なるか、はたまた稚児なるか。
『山川草木』(白山書房 二〇〇九)

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