ゾミア紀行(4) 「アパタニの暮らす谷」(前編)
セラ峠へ
東ヒマラヤの空はきれいに晴れ渡っている。であるのだが、道行きが進むにつれて、次第に遠くに見える高地が霞むようになってきた。トヨタの四輪駆動のジープでタワンの町を出発してから、すでに1時間近く経っていただろうか。
モンパの人たちが大勢を占めるタワンの町は標高3000メートルほどの場所にあり、運がよいことに、行きはアッサム州からその町までヘリコプターによる空路で入ることができた。今度はそこからアルナチャル・プラデーシュ州を東にむかって、下スバンシリ県にあるズィロという盆地を目ざして陸路での移動である。直線距離では200キロ程度にすぎないのだが、舗装されていない砂礫の道路を、尾根から尾根へと曲がりくねった山道を登ったり下ったりたりしながら進んでいく。いったんアッサム州の平野にでてから、再び山地に上がっていくことになり、2泊3日ほどの道行きになるとのことだった。
タワンを出立して最初の難関がセラ峠である。峠へと近づいてくると、凛と澄んだ冷たい空気がほおに伝わってくる。山頂らしく浅い川が流れていて、峠をこえる道路は川の脇を伝うように走っている。時おり視界が開けると、白い雪に覆われた巨大な岩礁のような、ヒマラヤの山岳地帯が唐突に姿をあらわす。標高が4170メートルあるというセラ峠は、高地でありながら草木が生えそめる世界なのだが、さらに高い世界には雪と岩ばかりが広がっているのが視認できた。ものの本によれば、アルナチャル・プラデーシュという州名は「太陽が昇る辺境の地」という意味だそうだ。セラ峠にはまさに辺境というにふさわしい荒涼とした風景が広がっていた。【*1】
そんなセラ峠にも、人間生活のぬくもりを感じさせる場所があった。山頂付近の川のそばに開けた土地に、岩にへばりつくようにして、トタンの屋根と壁をもつあばら家のような家々がならんでいた。そのまわりには、砂利や物資を運ぶ長距離トラックが数台停車している。いわば、東ヒマラヤのサービスエリアといえる。ぼくがジープを降りて、ひとつのトタンの平屋に近づくと、壁に直接スプレーで「ウェルカム・トゥ・ティー・ステーション」と書いてあった。
店に入ると、チベット系かモンパのような顔立ちの女性がいて、壁にずらりとお湯の入ったポットや皿や器をならべていた。紅茶のほかにも、ポテトチップスやビスケット、それからインスタント・ラーメンなどを売っていた。こんな高所の峠であっても、ちゃんと小型のガスボンベとガス台が運びこまれて、簡単に温かいお湯をわかすことができるのだ。ここはトラック運転手たちがつかの間の休息をとる場所であり、実際にストーブを真んなかにして男たちがおしゃべりに夢中になっていた。
ティー・ステーションの外にでて、ひとりのインド系の運転手に彼のトラックのデコレーションを見せてもらった。肌の浅黒い、まだ20代中盤くらいの若い男だった。タワン県からきたぼくたちとは反対に、たくさんのワインボトルを載せて、これからタワンに向かうところだという。トラックの正面は赤と青のプラスチック板を増設して、トラックの頭上に「パブリック・キャリー」という看板を掲げている。その真ん中に額縁に入った、遺影のように見える父親の写真を飾っている。荷台の鉄製の壁を派手なグリーンに塗っており、そこにヒンドゥーの神々、蓮の花、インド国旗、鳥などの大きなイラストが描いてある。東ヒマラヤの山道を行き来する、エンジン付きの巨大な祭壇といった具合である。
セラ峠には「ここが4170メートル地点」という公共の看板が立っていた。タワン県と西カメン県の境にはチベット仏教風の門が建ててあり、「タワンへようこそ」と書いてある。アッサム州から何泊もかけて、東ヒマラヤの陸路を登ってきた人たちは、この門を見て、ほっとひと息つくのではないか。寺門の周囲には、ありとあらゆる方向に白、赤、緑、黄、青の色をしたルンタが万国旗のように張りめぐらされてあった。それが高山の強風にあおられて、バタバタバタとものすごい音を立てている。ルンタがたなびく騒がしい音に追い立てるようにして、いよいよチベット文化圏を背にして、そこから外にでていくという実感がわいてきた。
ボンディラの町で
セラ峠から一路、西カメン県の山路を下っていく。まだ舗装道路はほとんどなく、砂利や礫を敷きつめたオフロードの道のりだ。一日中ゆられて、しかも右へ左へ曲がるたびに体重を移動してなくてはならないので、車酔いをする前にくたくたに疲れてしまった。夜になってボンディラという町の宿に到着した。建物のとなりにどぶ川があるせいか、その宿の部屋では、人生史上もっとも多い蚊とハエが出現してひと晩中悩まされることになった。宿の人にモスキート・ネットを頼んだが、そんなものは用意してないと一蹴されてしまった。
翌朝のことだ。よく眠れなかったので、朝早くからボンディラの町を散策した。東ヒマラヤからおりてきたせいか、半袖一枚で歩けるほどの暑さに肌が驚いていた。庭にルンタを張りめぐらせたチベット仏教の寺院があった。市場には、地べたに座って、乾燥させた唐辛子を箕に入れて売っている農家のモンパらしい女性がいた。通訳をしてくれたサンゲ・ツェリング・キーさんの自宅で見た、採りたての唐辛子を思いだした。そのほかにも日用雑貨店、果物屋さん、魚屋さん、衣服店を見て歩いたが、半分くらいが山岳民族系の人たちで、もう半分くらいはインド・アーリア系の人たちだった。
タワン県から数台のジープで隊列をつくり、州の中部にあるズィロという町を目指していたのだが、そのなかにアパタニの男性が参加していることを知った。36歳のドゥユ・タモさんで、部族文化のツアーを仕事にしており、ズィロ谷が地元だという。ホテルのロビーでタモさんをつかまえて、ズィロに到着する前に、アパタニについて話をいろいろと聞くことができた。アパタニ文化の核心に触れたければ、3月、春を迎えるためにおこなわれるミョウコウという祭りを見るのが一番いいとタモさんはいった。
「祭のあいだは、他の村からいろいろゲストが来るんですよ。1日目は、女性たちが伝統衣装を着て、ライスパウダーで豚を清める。そして、豚の供犠がおこなわれ、お腹を切って心臓を取りだす。2日目はすべての男性が参加する儀礼があります。そのあとで、飲めや歌えの宴がはじまるんです。役所が組織するようなフェスティバルでも商業的なものでもなく、大昔からズィロの村人が続けてきた本物の祝祭ですよ」
「アパタニにおける精霊信仰について教えてもらえないですか」とぼくは訊いた。
「わたしたちはアミニストで、太陽、月、川、山、木などの自然に宿る精霊を崇拝しています。現代ではそこからリバイバルした新宗教が生まれて、ドニ・ポロ信仰と呼ばれています。キリスト教、ヒンドゥー教、仏教とは一線を画すものです。昔からつづく慣習として有名なのは、女性が顔に入れるトゥペと呼ばれる入れ墨と、ヤッピン・ホロウという女性の鼻栓ですね。むかしは、顔の入れ墨と大きな鼻栓はファッショナブルな美しさを意味しましたが、現代のアパタニの女性はそれを嫌がるようになり、今となっては中高年の女性にしか残っていない習俗です」
ドゥユ・タモさんは、文字が読めない父親の世代とちがって、自分たちはアパタニできちんとした学校教育を受けた最初の世代だろうという。彼の息子さんが第2世代になるという。読み書きを習い、英語やヒンディー語をあやつり、欧米諸国やインドという外部の目を借り受けながら、アパタニの人たちを客観的に見ることができる人たちが現われている。タモさんはズィロ谷でトライバル・ツアーを主催する旅行会社を経営し、外国人たちもよく泊まるキャビン式の宿を所有する。いわばアパタニの未来をつくる若い世代であるが、その一方で、現代ではネガティブに見られがちな、入れ墨や鼻栓のようなアパタニの慣習を外部に紹介することをビジネスの一部としておこなっている。その複雑な立場が、インタビューをするなかで、彼の表情や言葉のはしばしから伝わってきた。
そのあとも、アルナチャル・プラデーシュ州を横断する旅はつづいた。あるとき、何もない山のなかでジープが停まったので、何が起きたのかと、うたた寝から目をさました。インド人、フランス人、日本人、山岳民族から成る一行がどやどやと車外にでていく。みなが写真を撮っている先を見つめると、遠くに見える森の高所から長くて白い筋が垂直方向に伸びていた。山の中腹から滝が流れ落ちているのだ。ぼくには、むしろ近くの道路に腰かけて、大きな岩をハンマーで細かく砕いている女性たちのことが気になった。山中を車で走っていると、そうやって女性たちが立ち働いている姿をよく見かけたからだ。
「この小石は道路や橋の建材として利用される。50kgのセメント袋1袋分の小石を割って、およそ30ルピーの賃金になる。インド政府はアルナチャル・プラデシュ州の開発を急速に進めているため、砂利や小石は大量に必要とされている。そのため、この仕事は地元の女性の仕事として普及した。また、道路建設のために多くの人がネパールから出稼ぎに来ている」と本には書いてある【*2】。こうした女性が汗水を流して働いたおかげで、舗装されておらず、よく揺れるけれども、山岳地帯の道を車で行き来することが可能になっているのだろう。感謝しなくてはならない。
その後、イタナガールではダライ・ラマ14世にゆかりのあるゴンパ(仏教寺院)を訪ねてから、久しぶりに都会といえるほど大きな町で1泊した。いったんブラマプトラが流れる平野までおりて、アッサム州の青々とした茶畑が広がる景色のなかを、四駆のジープはものすごいスピードで走り抜けた。そのあと、ふたたび入域許可証の必要な山岳地帯のエリアに入り直し、ニシの人たちの暮らす村を訪ねた。それから、東ヒマラヤの山を北上していき、最後にズィロの町に着いたときには3日目の夜になっていた。
ズィロの谷
アッサム州から北に登り、マクマホン・ラインでチベットに接する東ヒマラヤの地域が、長いあいだ西洋の人間から未踏の地とされてきたのには、さまざまな理由があるだろう。急峻な山岳地帯が広がっているのに加えて、世界でも有数とされる雨の多い地域といわれ、川や小さな水の流れが道を押し流し、交通がとても不便な土地であった。それから、勇敢な山岳民族の人たちが、英領だった時代のインド人やイギリス人をはじめとする西洋人が侵入してこないよう、強い抵抗を見せたことで探検が困難だったともいわれる。
1944年、日本軍がビルマからこの地域へ征西してくる勢いであったので、英領インドの政府は、フューラー・ハイメンドルフというオーストリア出身で、ロンドン大学で教鞭をとっていた文化人類学者に、インド北東部の辺境州における未踏地を調査することを依頼した。まさにそれは探検というにふさわしい調査行であり、それについてはハイメンドルフが物した『ヒマラヤの蛮族』という文章に詳しい(1970年の翻訳であり、現代では受け入れがたい訳語が使われているがママにしている)。その調査の目的は、まだインド政府のガバナンスがおよんでいない山地民と友好な関係を築き、少数民族の状況やその風俗に関してデータを集めて、スバンシリ川の上流地域を調査することにあった。【*3】
ハイメンドルフが是非とも訪れたいと願ったのが、アパタニの人たちが住む高地のズィロ谷であった。アッサムの平地でアパタニ語を理解し、アッサムの言葉に堪能な平地ダフラ族の男を彼は通訳に雇った。ポーターたちに荷物を運んでもらい、東ヒマラヤの山岳地帯における深緑の森のなかを、少しずつ徒歩で進んではキャンプをはって泊まるという道行きだった。現代のように飛行機やヘリコプター、あるいは自動車で一挙に道路を登ってしまう旅では気づかないような繊細な事柄をハイメンドルフは察知している。
ハイメンドルフたちの一行は延々と山のなかを登っていき、ついにたどり着いた地域に広々とした盆地があって、そこに水田地帯の風景が広がっていたことに驚いた。アパタニは古来から水稲によって、豊かな富を築いてきた民族だっだ。驚いている間もなく、ヨーロッパからきた珍しい来訪者のまわりにアパタニの老若男女が群がり、自分たちと異なる珍奇な姿をしたハイメンドルフのことをひと目見ようと押し寄せてきた。そして、その顔や髪や体躯を見ると、娘たちがくすくす笑ったり、大人も驚きのあまり口をあんぐりと開けたまま閉じれなかったり、強い反応を呼び起こした。
そんなふうに、ハイメンドルフたちがズィロ谷を訪れてから、70年の月日が流れていた。早朝に宿で目がさめると、ズィロの盆地には白くて濃い霧がかかっていた。外にでると100メートル先も見えなかった。真夏の陽気だった平地のアッサムに比べて、肌寒さを感じてしまうくらい涼しい。途切れなくつづく虫の音が、街路や田畑や野山に遍満しており、それをときどき野鳥とニワトリの鳴き声が切り裂いていく。コンクリート製の家屋やトタン屋根をもつ民家があるなど、近代的な建物が多いが、時おり昔ながらの竹を建材にした高床式の家屋や木材による建築物を見かける。むかしの屋根はトタン板ではなく、ニッパヤシの葉で拭いていたそうだ。
どこかに行くあてがあるわけでもない。しかし何かに魅せられ、誘いだされるようにして、ズィロ谷の田舎道を歩いていると、ひとりのお母さんと3人のお子さんがいるアパタニの農家があった。家屋と隣接する敷地には広い畑があった。1メートルほどの高さの高床式になった倉庫のなかに、大きなカボチャが山となって積まれている。家族が暮らす家屋は水色に塗ったコンクリートの建物だったが、なかに入ると部屋の真んなかに囲炉裏があって、焚き木からオレンジ色の炎があがり、調理鍋のなかのお湯が沸騰していた。囲炉裏の上に無数の焚き木が、天井から吊るす方法で収納してあり、炉の火や煙によってそれらを乾燥するらしい。おそらく供犠にされたのだろう、囲炉裏の上に大きな角をしたミトゥン牛の骸骨が飾ってあって、ぎょっとした。
浅黒い肌をして、がっしりとした体格の母親が、鉄製のトングを使って朝食を料理をしている。燃えさかる鉄鍋のなかでは、ぶつ切りにした野菜と肉がぐつぐつと煮こまれていた。居間の内側は伝統的な竹織りの壁になっており、そこに子どもたちが数字や単語をおぼえるための挿絵入りの表が貼ってあった。父親は朝早くから畑仕事にでかけたのだろうか。ちょうどアパタニの農家では、お母さんと子どもたちが、これから朝ご飯を食べるところだった。電気もガスも通っていない家だが、水道はきていて、特に日々の暮らしに不便なところはないようだ。家族が食事をしている傍らに座り、子どもたちから竹は「ビジェ」で、タケノコは「ヤプー」、父親は「アボ」で、塩は「タピュー」というのだとアパタニ語を少しだけ教わった。
アパタニの人びと
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