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『クラシック名曲「酷評」事典』上・下巻(YAMAHA)ニコラス・スロニムスキー編

 突然だが、あなたはクラシック音楽に詳しいだろうか。

 ベートーヴェン、リスト、ラフマニノフ、チャイコフスキー、うんうん、学校で聞いたなぁ。私はその程度だ。すまんが話は広がらない。

 と、言っておきながら、クラシックに詳しくない私がクラシック音楽にそこまで興味がない人でも楽しめるであろう本を今日は紹介したい。

 ──え?

 おい待て、詳しくないのになぜ紹介する、と思うかもしれない。

 よし分かった、言い訳をさせてくれ。

 今の時代にはサブスクがあるだろ。知らない曲でもすぐに調べて聞けるという有難い時代だ。そうすれば、知らない曲も知っている曲となり、それを繰り返せばいつかは詳しくなるというものだ。

 長期戦の話を今するか! ごもっとも。だがするね。

 なぜなら、曲を聞きながら是非とも読んで欲しい事典があるからだ。

 なので今日は、

「なになに、罵詈雑言ばかり集めた奇書?! 気になるけどクラシックかぁ。あんまり詳しくないしな」

 と思った方におすすめしたい、酷評ばかりを集めた「なぜにそんなものを集めようと思ったスロニムスキー(編纂者)よ!」と言いたくなる、その名も

『クラシック名曲「酷評」事典』だ!


 酷評という言葉に、二の足を踏む方もいるかもしれない。私も以前、アマ○ンレビューで好きな映画が酷評されているのを読んで

「(某有名SF映画のレビューを見て)時代遅れの念力映画だとぉ?! なんでやねん、量子テレポーテーションってすぐわかるやん! ああ、しかも参考になった押している人めっちゃおるやん最悪」

 と、ショックを受けた記憶がある。

 酷評か……読んだら嫌な気持ちにならないかな。

 だが『クラシック名曲「酷評」事典』は、わざわざ編纂したくなる気持ちが分かる「想像力卓越し過ぎぃぃ」と言いたくなる酷評がわんさかあるのだ。

 今、サブスクで音楽が聞ける状態にある人は是非とも、リストの《嘆きと勝利》(《タッソー、悲劇と勝利》と表記されている場合もある)を再生してもらいたい。


 さて、この曲からあなたはどんなイメージが湧いただろうか。


 アメリカ人作曲家のジョージ・テンプルトン・ストロング氏は、この曲を聞いて脳内でこんなことが起きていたらしい。


《嘆き》は(中略)一頭の牝牛が連れ去られた子牛を探して見知らぬ路地をさまようが徒労に終わった様子を思わせた。

 いや待て、牛、どこから出てきた?!

《勝利》は(中略)勝ち誇る主人公がポケットに手を突っ込んで小銭や鍵束をジャラジャラ鳴らす様子を描写しているようだった。

 えええええええ?!!

 物語生まれすぎぃ!!

 ちなみに、リストの《嘆きと勝利》はゲーテの戯曲『タッソー』のためにつくられた曲だ。

 当然ながらゲーテの『タッソー』には牛も小銭も鍵束も出てこない。確かに、鍵束は実際出てはこないが、タッソーが監禁されたシーンから連想されなくもない。でも、牝牛はおらん、、間違いなくおらんかったで!

『タッソー』(『ゲーテ全集5』(潮出版社)より)は超ざっくり説明すると、詩人のタッソーがフェッラーラ公国君主の妹に恋をし、彼女の優しさを自分に対する愛だと勘違いする話だ。そんな勘違い君タッソーは、苦言を呈する大臣に剣を抜いたり、公女の優しさは自分への愛だと勘違いしたり、なかなか痛い人物として描かれている。ただ、良いか悪いかはさておき、タッソーの0か100かという極端な性格はいかにも詩人らしい、とは思える。

 で、やっぱり、迷子の子牛も小銭も関係ないね。

 《嘆きと勝利》に対する酷評を書いたストロング氏の脳内映像を是非とも見てみたい。どないなっとんねん。

 そうそう、話は逸れるが件のタッソーによる『タッソ エルサレム解放』(岩波文庫)はおすすめだ。『エルサレム解放』の完訳ではないが、ジュリアーニ氏による語り繋ぎがあることで、私は作品に入り易かった。牢獄番に恋をした捕らわれの姫、しかしその牢獄番である兵は、敵軍の女戦士に心奪われ戦場にて「この胸を刺してくれ」と叫ぶ。他にも、人を魅了し惑わせるはずの美しき魔女が若い敵兵に恋焦がれ、森に閉じ込めてしまう話など、甘く切ない物語がぎっしり。イタリア古典の名作と呼ばれる『エルサレム解放』は、優雅な時間をくれる作品だ。

 さて、話を『クラシック名曲「酷評」事典」に戻し、

 「天才音楽家と呼ばれる人々がこんな酷い言われ方をしているなんて」問題の話をさせて欲しい。

 ここで一つ告白したいのだが、そもそも私は所謂天才音楽家たちの曲を聞いて、

「はぁーやっぱええ曲やわ」と思うこともあるが、「うん、よくわからん」となる時もある。

 何百年も昔の作品であるにも拘らず現代でも演奏される作品なのだ。おそらくすごいのだろう。という、恐ろしくいい加減な結論で済ましていた。

 もし、ここで共感してくれる人がいたならば、是非とも本書の下巻(157ページ)に記載されている解説「音楽には愛を、罵倒にも芸を」を読んで欲しい。『クラシック名曲「酷評」事典』の極上な楽しみ方ガイドとなっている。

集めに集められたこれらの酷評は、一見するとみな一様に文句を言っているように見えるし、実際に文句を言っている。だが、そのつもりで読んでみると、酷評にもいくつかのスタイルがあるのが分かる。

 そうなのだ。「誰がなんと言おうとこれは名曲だ!」と自分の感想がはっきりしている場合ならともかく、「嫌いじゃないけど、みんなの評価はどうなんだろう」と判断しかねる曲の酷評に遭遇した時、どう消化していいのか分からず戸惑ってしまうのだ。

「こんなに酷いことを言われているのだから、そこまで名曲ではないのかもしれない」

「いやいや、誰もが知っている名曲だぞ。そんなはずはない」

ここで注意しておきたいことがある。こうした評価の言葉は、一見すると対象となった音楽の性質のように見える。だが、正確にはそうではない。その音楽を耳にした批評家の経験を表したものだ。そこには、批評家当人が、音楽に対してなにを期待しているか、なにを評価のポイントとしているか、といったことが隠れようもなく現れる。

 つまり、いくら著名な批評家であろうと、その評価が絶対的に正しく、従わなければならない、なんてことはないのだ。

 では、受け入れ難い評価だった場合はどうすればいいのか。こちらにも反撃の手段はあると「解説」は教えてくれる。

 酷評を初級編、中級編、上級編とこちらも評価し返せばいいのだ。

 では、その分類方法は──それはぜひ本書下巻の解説を読んで楽しんでもらいたい。

「めちゃくちゃ言い過ぎだろ」

 と言いたくなる酷評も

「う、うまいこと言うじゃねーか。だがな、こっちもええ台詞思い付いたで」

 となる酷評も、この奇書を読めばきっと出会えるはずだ。

 さぁ、あなたも今宵は罵詈雑言の中からセンスが光る「酷評」を探してみてはどうだろう。


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