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「木乃伊」中島敦著(ちくま文庫『中島敦全集1』所収):図書館司書の短編小説紹介

 波斯ペルシャ王が埃及エジプトに侵攻した時、武将の一人であるパリスカスの様子に異常が見えた。
 「見慣れぬ周囲の風物を特別不思議そうな眼付で眺めては、何か落着かぬ不安げな表情で考え込んでい」たという。
 彼は、「今迄に一度も埃及に足を踏入れたこともなく、埃及人と交際を持ったことも」ないのに、埃及軍の捕虜たちが話す言葉の意味を分かるような気がするのだった。
 
 波斯ペルシャ王は侵略を決定的なものとするために、埃及エジプトの先王アメシスのしかばねはずかしめようとし、配下の者にその捜索を命じる。
 多数の墓地を一つ一つあばいてあらためる人員の中に、パリスカスも混じっていた。
 捜索を始めてから何日目かの或る午後、パリスカスはたった一人で或る非常に古そうな地価の墓室の中に立っていた。
 そこで彼は一体の木乃伊みいらを見付け、その顔に見入った。
 それは彼自身だった。
 正確に言えば、過去の彼なのだった。
 
 木乃伊みいらを見ているうちに、パリスカスの魂がそれに宿っていた時の、遠い過去の記憶が蘇って来る。
 当時彼は、エジプトの都市メンフィスの祭司をしていたらしい。
 記憶の奔流の中で、かつての妻や子、親であるのか老人の姿も目にする。
 幾百年か前のパリスカスの生が、ありありと意識の上に映写されるのだ。
 
 一度過去の記憶は寸断され、魂は現在のパリスカスの元に戻る。
 だが彼の魂は、「尚も、埋没した」「彼の過去の生の経験の数々が音もなく眠っている」「前世の記憶の底を凝視し続けて」いた。
 そして、パリスカスの魂の眼は、「一つの奇怪な前世の己の姿を見付け出」す。
 前世の自分が、前々世の木乃伊みいらである自分と向かい合っているのだ。
 同時に、前世の自分が前々世の自分の生活を思い出す……。
 
 となれば、前々世の自分の記憶の中には、前々々世の自分の姿もまた見えるだろう。さらに、前々々々世の自分の記憶の中でそれより前の己の姿も見えてくる。
 パリスカスはぞっとし、そこから逃げ出そうとする。けれど足はすくみ、木乃伊みいらの顔から眼を離すことが出来なかった。
 
 翌日、他の部隊によって発見されたパリスカスは、もう元の彼ではなかった。
 固く木乃伊みいらを抱いたまま古墳の床に倒れていた彼は、「明らかな狂気の徴候を見せて」おり、話す言葉は埃及えじぷと語だったという。
 

 人は死ぬと生まれ変わり、また新しい生を生きることになる。それがずっと繰り返されていく。
 漠然とながらそう考えている日本人は多いのではないだろうか。
 私も、絶対にそうだとの確信はないけれど、命や魂といったものはそのように生まれ変わりを繰り返していくものだと思っている。
 おそらく仏教の輪廻転生思想が、自然に頭に染み込んでいるためだろう。
 親からの話であったり、テレビや絵本の昔話であったり、小説や漫画や映画だったりと、諸々の影響によって形成された考えだ。
 悪い生き方をしたら、来世では虫やミミズに生まれ変わる。
 現世で苦労が多いのならば、前世で悪いことをしたからかもしれない。
 だから、今はまっとうに生きるべきといった教えもあった。
 
 ただ、そのような輪廻転生は漠然と思い浮かべるから、生への張り合いが漠然と湧いて来るのであって、パリスカスのように魂の実体験として前世、前々世、前々々世……が明確に観えてしまうと、正気を保っていられるかどうか疑問だ。
 過去世の自分がどのように生きたかを丸々見てしまえば、現世の自分の生もあらかた想像できてしまう。
 さらに来世、来々世の己の生き方すらも、予測というよりももっと確度の高い予知が可能になってしまいそうだ。
 自分の限度限界がはっきりと見えている生を、誰が生きたいと思うだろう。誰が生きられるだろう。
 
 今がどんなにつらく、つまらなく思われていても、未来は変わるかもしれないと期待できるからこそ、人は生きていられるのではないか。
 過去にしても、未来にしても、見え過ぎてしまうと、魂は耐え切れず、狂気の領域にまで人を追い遣ってしまうのかもしれない。
 
#読書感想文

将来は漠然としている方がいいと感じた短編は他にもあります。
たとえば、以下の物語などなど。
よろしければ、こちらの短編もお読みいただくといいかもしれません。とても面白いです。



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