言葉で伝えられること、伝えられないこと
大学院の村山ゼミは「理想の社会とはどんなものか」「善悪とは何か」「誰々にとって何々とは」といった抽象的なテーマについてゼミ生が自由に議論し、最後に老師(あるいはジェダイマスター)のような村山先生がコメントをする、という形で進められています。時々「山菜」をテーマにしたお話を書いていたのも、ゼミ生の一人が「山菜になりたい」と言い出したことがきっかけです。先生のスタンスは基本「放置」なのですが、「言葉を信用していない」「『幸せ』『愛』などのビッグワードに気を付けなさい」「結局のところすべて嘘」ということを一貫して言われています。言葉が人を分けるのだから、言葉なんか無ければいい、または言語が70億種類あればいい、とも言っています。ここまで読んで、何を言っているのか分からない方も多いと思います。要するに哲学みたいなことを、自分を知るために、毎回話し合っています。以前書いた『白い夢』に出てくる「ユメ」は村山先生がモデルです。
先日、友人と話をしていて、言葉の話になったときに、下の記事を紹介してもらいました。数年前のものですが、大岡信氏が亡くなったときに、詩人の谷川俊太郎さんが寄稿したものです。あれほど日本語に長けた谷川さんが「本当はヒトの言葉で君を送りたくない」と言っているところに重みを感じます。きっと言葉で伝えられることと伝えられないことを誰よりも分かっているのだろうなと思いました。
しかし、ヒトの言葉で送りたくないと言っておきながら、その後に続く言葉が美しすぎてため息が出ます。
言葉には限界があって、自分が思い感じ考えていることを、間違いのないように言葉にするのは難しいし、そもそも言語化できないものも沢山あります。ましてや死んでしまった人は声・文字・言語のない世界に行ってしまうのだから、コミュニケーションツールとしての言葉はもはや役に立たないかもしれない。(詩の中の「意味を後にした」という表現はさらに深くて、現世は意味の世界で、死後は意味から解放された世界、という世界観なのか?? これについてはまた改めて考えてみます)
さて、この記事をゼミ内でシェアしたところ、ゼミ仲間が下のQ&Aを紹介してくれました。読者の質問に谷川俊太郎さんが答えたものです。
質問「どうして、にんげんは死ぬの?さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。」
(と聞かれたお母さんから「正直、答えに困りました~」との質問)
答「あのねお母さん、言葉で問われた質問に、いつも言葉で答える必要はないの。こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、ココロもカラダも使って答えなくちゃね。」
私は日本語が好きで、美しい日本語はもっと好きで、noteでも主に言葉を使って発信していますが、言葉に頼って頭でっかちになっていたのではないか、と改めて考えさせられました。
だけどやっぱり日本語って素晴らしい。