なぜあなたと私で「読了」の意味が違うのか
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
読書会を長らく主催していると、読書に対する捉え方や価値観が全く異なる人に出会うことがある。むしろ、価値観が全く同じである人のほうが少ない。
なぜ本を読むという行為は同じなのに、こんなにも読書に対する価値観が異なるのだろうか。
最近、会社のお偉いさんが推奨している本で、細谷功さんと佐渡島庸平さんの「言葉のズレと共感幻想」株式会社dZERO (2022)を読み終えた。
大まかな流れとしては、言葉という抽象的な概念を、いかにお互いに擦り合わせていくか、お互いの言葉の定義や価値観を合わせていく方法などについて2人の対談形式で記す。
同著の中に、「本を読む」という行為や言葉に対しても、様々な捉え方や価値付けがあるという章がある。
具体例を挙げるとすれば、会社や上司からこの本を読むべしと勧めることがある(現に私自身も、会社のお偉いさんが勧める本を読んでいる)。すると当然、会社からしたらその本を本当に「読んだ」のかが問われる。
私にとって「読んだ」とは、「読了」したことを指す。その本を読んでどう思ったかは個人の感性により異なるから、その本を読んで自分がどう思ったのかを考えるかが大事だと捉えている。
だが会社からしたら、上司がなぜその本をおすすめしたのかという意図を汲み取って、ようやく「読んだ」と言えるのである。お互いの価値観を合わせるために、この本を読んできてと言っているのである。
その時点で、すでに私と会社において「読んだ」という言葉の捉え方が異なる。私が「読みました!」と言っても、上司からしたら文字を表面で追ったに過ぎない事になりうる。
なんで上司はこの本を勧めたのだろうか、その意図を汲まない限り、いつまでもお互いの価値観は一致することはない。
これはあくまでも一例だが、コミュニケーションにはこのような齟齬が往々にして発生する。
抽象化と言うと難しい話になりがちだが、要は人間は自分の見ている視線でしか世界を認識できないのである。
具体的なものと、抽象的なものとでズレが生じるため、話が噛み合わなくなってしまう。
世界を無意識のうちに切り取ってしまうため、同じ言葉でも齟齬が発生する。
それこそ国語の試験のように、あらかじめ著者の意図として最も適切なものを答えよ言われたのならば、そうか、著者の意図を読みとかねばならないんだなと思いながら文章を読むことができる。
でも人が本をおすすめする時に、なぜこの本を読むべきか、全てを伝えないことがある。むしろその手間を省くために、本を紹介しているともいえる。
そこまで深読みして本を読む前提で生きていないため、私とあなたとでは「読了」の意味が違ってしまう。
それを是とするか否かは人や組織による。
会社のように一つのビジョンに向かって力を合わせるなら、同じ価値観を共有することを前提に本を読むべきだろう。同じ本を読んで、全員が同じ見方ができるようになることに意味がある。
前述のとおり、この本の主軸はいかに言葉という抽象的なものを一致させる、または違いを可視化することにある。お互いが持つ言葉の定義を浮き彫りにして、認識を深めることを目指している。
だが、読書会のように様々な世界を知ること意味があること前提とするならば、読書や読了に対して様々な捉え方があっていい。同じ本を読んで、一人ひとり異なる感想を抱くことに価値がある。
それゆえ、こと読書においては様々な捉え方があっていいんじゃないかなと、勝手に結論づける。
この時点で、会社のお偉いさんの意図を汲んでいない。でもこの本は非常に面白かったと存じ上げます。それではまた次回!
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