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読書記録「ことり」

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

今回読んだのは、小川洋子さんの「ことり」朝日新聞出版 (2016) です!

小川洋子「ことり」朝日新聞出版

・あらすじ
小鳥の小父さんが亡くなった。遺体と遺品は、身寄りがない場合の決まりに沿って、手際よく処理された。

小鳥の小父さんが亡くなった時、手には鳥籠を抱えていた。中には1匹のメジロが、美しい声で鳴いていた。

警察官が鳥籠の扉を開けると、メジロは飛び出し、遺体の上を一廻りしたら、窓から外へ飛んでいきました。


彼がなぜ「小鳥の小父さん」と呼ばれるようになったか。遡ること数年前、彼は幼稚園の鳥小屋の清掃をしていた。

ただ仕事ではなく、一種のボランティアのようなものだった。

その姿を見て、幼稚園の子供達は、彼のことを「小鳥の小父さん」と呼ぶようになった。

ではなぜ鳥小屋の清掃をしていたのか、さらに時間を遡る。

小鳥の小父さんには、お兄さんがいた。

しかし、お兄さんは「普通の言葉」を話すことができず、独自に生み出した「ポーポー語」を喋っていた。

お兄さんは鳥が好きだった。お兄さんは小鳥のさえずりを理解し、そしてポーポー語でお喋りができた。

不思議なことに、小鳥の小父さんだけは、お兄さんのポーポー語を理解できた。だからしばらく、兄弟はずっと一緒に暮らしていた。

時は流れお兄さんが、幼稚園の鳥小屋の近くで亡くなる。それから小鳥の小父さんは、鳥小屋の清掃を自ら引き受けた。

お兄さんが生涯をかけて見つめ続けた鳥小屋を、隅々まで丁寧に磨き上げながら、求愛の歌をうつむいた背中で聴くのだ。それが死んだお兄さんの最も近くに行く方法だと。

同著 117頁より抜粋

東京読書倶楽部の読書会に参加された方が紹介した本。その方も、別の読書会で紹介を受けて、ひどく感銘を受けたそうで。

年末に神保町を訪れた際、「PASSAGE」に並んでいたのを手に取り、紐解いた次第。

小川洋子さんの本は結構好きだ。「博士の愛した数式」から始まり、人づてに教えて頂いた「ブラフマンの埋葬」や「偶然の祝福」。

本当は失う前に気づくべきことではあるが、失ってから大事なものに気づくということを、愛情深く教えてくれる感じ。

残虐な死は迎えず、安らかなる死を迎える、心温まる作品なのが、個人的に好きである。


それはさておき、「ことり」である。

この作品を読み終えた時、一番最初に思ったのが、「小鳥の小父さんは、幸せだったか」どうか。

物語の冒頭、小鳥の小父さんが亡くなった一連の出来事は、きっとニュースであれば、単なる老人の孤独死である。

きっと小鳥の小父さんは、数日、いや数時間で忘れ去られる程度の出来事に過ぎない。


話は飛躍するし、少々不謹慎な話になる。

正月、実家でテレビを見ていた時、老人が精米所に立てこもる事件があった。

精米所はスーパーと自宅の中間地点らしく、暖を取るために精米所に立てこもったそう。

とは言え、他のお客様の手前、見過ごすわけにも行かず、警察が出動した。というニュースまでは見ていた。

しばらく経って、その老人をニュースで見かける。低体温症で亡くなったという記事で。

SNSでは、「福祉の恩恵があれば…」「本人にその意思があれば…」と書いてあった。


話を「ことり」に戻す。小鳥の小父さんもまた、悪い言い方をすると、社会の周縁に追いやられた人である。

普通の意思疎通ができないお兄さんと暮らしていたため、どうしても社会との関係性が希薄になっていた。

出掛けるところと言えば、幼稚園の鳥小屋、ポーポーを取り扱う薬局、図書館、それから公園程度。

時折、小鳥の小父さんと仲良くなる人にも出会うが、まるで電線の小鳥たちがいつの間にかいなくなるように、小鳥の小父さんの目の前からいなくなってしまう。

徐々に居場所を無くし、冒頭の孤独死のシーンに戻る。最初であり最期だけを見たら、身寄りのない老人の死でしかない。


だけどきっと、小鳥の小父さんは幸せだったと思う。

なぜなら小鳥の小父さんは、メジロから愛の歌を聴いたのだから。

小鳥の言葉を理解し、たくさんの小鳥を救ったのだから。

ある時は鳥小屋の十姉妹を、またある時は、本に隠れた小鳥たちを。

そしてお兄さんと同じように、小鳥に連れられて天国へ旅立ったのだから。

「小鳥たちが味方してくれますから、何の心配もありません」
十姉妹に語り掛けるように小父さんは言った。
「彼らが兄を、天国まで導いてくれます。何と言っても小鳥は、空を飛べるのですから」

同著 116頁より抜粋

「幸せ」というものは、他人がどうこう決めるものではない。

どんな状況であろうとも、その人なりの幸せのあり方というものがある。

何が言いたいのかと言うと、結局はその人の一生を見ないことには、簡単に幸せ・不幸せかどうかは、わからないこと。

それゆえ、小鳥の小父さんが幸せだったと思うという解釈も、ある意味間違いである。

幸せか否かは、小鳥の小父さんにしか分からないのだから。

だけど、少なくとも、この物語が悲しい小父さんの話かと問われたら、私は違う捉え方をしたということ。

小父さんにとって、小鳥が幸せの拠り所になっていたんじゃないかって。

小鳥のさえずりがそばにある限り、他の余計な言葉を何一つ聞かなくても済んだ。ポーポー語だけが寄り添ってくれていた。

同著 303頁より抜粋

なお、小川洋子さんの作品あるあるではあるが、本作品では固有名称は登場しない。

フィクションではあるけれども、人々の半生を、私事として捉えやすいためだそうで。

もしかしたら、いずれ自らにも起こりうる物語なのかもしれないと。

そんなことをふと考えながら、ふと小鳥の歌に耳を傾けてしまう、いい作品でございました。それではまた次回!

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川口 竜也 / 川口市出身の自称読書家
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