読書記録「新釈 走れメロス 他四篇」
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
今回読んだのは、森見登美彦さんの「新釈 走れメロス」KADOKAWA (2015) です!
・あらすじ
芽野史郎は激怒した。かの邪智暴虐の図書館警察長官を除かねばならんと決意した。
芽野は阿呆な大学生である。惰眠を貪り、落第を重ねて生活してきたが、厄介なことに邪悪に対しては人一倍敏感であった。
「たまには講義にでも出るか」とキャンパスに向かうと、学園祭のために講義は全て休講となっていた。
唯一の友人である芹名に会おうと「詭弁論部」に向かうと、そこには部室前で炬燵を囲うかつての知人たち。
聞けば図書館警察長官の手により、部室を取り上げられたのだという。
長官の恐怖政治に対して、怒り心頭に発する芽野は、単身図書館警察長官のもとに立ち向かう(決して連行されたわけではない)。
かつて友人から裏切られ、絶対に人を信頼しないのだという長官は、詭弁論部を救うための条件として、明日の学園祭の舞台でブリーフ一丁で踊れと言う。
望むところだと意気込む芽野。だが明日は姉の結婚式があるため、フィナーレには必ず帰ってくると、代わりに芹名を人質として置いておくと言う。
連れてこられた芹名に一切を説明し、熱い握手を交わした後、芽野は大学を飛び出した。
二人の姿にほんのちょっと友情を感じた図書館警察長官。しかし芹名曰く、彼は絶対に帰ってこないという。
なぜなら、芽野に姉など存在しないのだと。
芽野は走る。友を見捨てるために(新釈『走れメロス』より)。
その他、傲慢が講じて天狗になってしまった大学生の『山月記』、学園祭で上映された映画の謎を様々な視点から描く『藪の中』など四篇を収録。
先日の京都旅行のお供に持参した本の1冊。「ノスタルジア」で『偽電気ブラン』を嗜みながら紐解いたのは、いい思い出である。
太宰治の「走れメロス」や中島敦の「山月記」は、世代によっては教科書に載っていた作品ゆえに、一度は読んだことがある方が多いと思われる。
原作では、濁流を超え、刺客を倒し、満身創痍になりながらも友のために走る姿に手に汗握る展開。死を顧みずに友の待つ街まで疾走するメロスの熱い『友情』を描いている。
しかし、本著における『走れメロス』では、友を「見捨てる」ために京都中を駆け回る芽野の姿が描かれている。
追手を巻くために鴨川を泳いで渡り、自転車にこやか整理軍の刺客を逃れ、そう言えば今朝から何も食べてなかったと猫炒飯を食べ、かつての友人に裏切られて…。
しかし、彼らにとっては、それこそ『友情』なのだと言う。
字面だけ見たら一理あるかもしれないが、自分で騒動を起こし、逃げるために走っているのだから詭弁である(笑)
しかし、太宰治の、というよりは学校の教科書が望む解釈と異なり、ここまで自由に物語を捉えることができる。
それは森見登美彦さんの凄さでもあるのだが、そんな解釈にも耐えられるからこそ、名作は名作たるのだと言う。
当時は教科書の物語として、著者の意図を汲み取るという、誰が決めたのか分からない正解を求めて読んでいた感じは否めなかった。
しかし、改めて紐解いて、自由気ままに読んでみると、当時読んだときには考えなかったことや、新たな感情を覚える。
年齢や経験とともに、作品への捉え方や感想が変わっていくものであるのだろう。
それを踏まえると、私であれ他人であれ、読み手によって様々な解釈が生まれる作品が、永く読まれる傾向にあると思われる。
それが名作の素晴らしさであり、森見登美彦さんの仰るとおり、名作の恐ろしさなのかもしれない。
無論、どんな小説であっても、同じ本を読んで、皆一様に同じ感想を抱くなんてことはほとんどないだろう。
しかし、「面白い」「面白くない」といった感想に差はあるかもしれないが、解釈に差が出る作品はそう多くはないかもしれない。
話が脱線したが、この作品を読んで、元になった作品も読んでみたいと思った次第。それではまた次回!