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読書記録「グレート・ギャツビー」
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
今回読んだのは、スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳の「グレート・ギャツビー」中央公論新社 (2006) です!
![](https://assets.st-note.com/img/1702691507996-ftsN8vNYFt.jpg?width=1200)
・あらすじ
まだ僕が若い頃、父がひとつ忠告してくれたことがある。誰かのことを批判したくなったら、世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと。
1922年 僕は中西部の都市を抜け出し、"肉感の揺さぶる"ニューヨークのある東部へ住み着くようになる。対岸のイースト・エッグが高級住宅街なのに対し、僕が住んでいるウェスト・エッグは「高級感に欠ける」地域だ。
だが僕の住宅の隣には、眼を見張るような大豪邸があった。かのギャツビーなる人物の屋敷であった。
毎週のように有名人やオーケストラなどを呼んで盛大なパーティーを催すギャツビー。だが彼の望みは唯一つ。かつて愛を誓った女性ともう一度出会うこと、それだけだった。
だが彼女は既に結婚していた。しかし夫は他の女と浮気しており、二人の関係は今にも崩壊寸前。ギャツビーに頼まれ、僕は彼女と引き合わせるよう手筈するのだが…。
先日 レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」を村上春樹の翻訳で読み終えたばかりだったので、文体に慣れているであろうこの流れで紐解いた次第。
だいぶ前、この本を別の読書会で紹介を受けたときに、「この本はアメリカの華々しい時代を描いていて、どうも好きになれない」と語る人に出会った。
それゆえ紐解く前は、「グレート・ギャツビー」と言うからには、いかにギャツビーなる人物の華々しい人生の物語かと思っていたが、どうやら違う。
自分が読んでいる間、これは本当に華々しい話なのだろうかと、常に疑問だった(勿論時代背景や歴史の観点からは、他と比べて栄えているかもしれないし、あるいは翻訳が村上春樹だったからかもしれない)。
確かに、ギャツビーなる人物は、毎週末著名な人々を呼んでパーティーを催すなり、羽振りの良い振る舞いができる点については、文字通り「華麗なる」生き方をしているように見える。
それ故に(まさしくそれ故に)、彼はあらゆることに巻き込まれてしまう。根も葉もない噂話や憶測、ゴシップといった、他人の"食い物"にされた。彼はただ、かつて愛し合った女性と出会うためだったにも関わらず。
そして華々しいギャツビーの短い人生は、呆気なく終わる。最後は誰にも愛さることなく、思慮を欠いた人々のせいで。
ただ、物語を通じて、また他人事だから言えることかもしれないが、彼は過去に囚われすぎたのかもしれない。
過去に愛し合った者同士、いかなる困難があろうとも、例え相手が結婚していたとしても、最後は結ばれるという物語は、当人達にとっては素敵な結末であろう。
だが、現実はそうはいかない。
もしギャツビーが彼女を諦めたとしたら、あるいは他の未来に目を向けたならば、このような結末は迎えなかっただろうか。
もしくは、ギャツビー自身、この結末を全て分かっていたのかもしれない。それでもなお、彼が過去を取り返そうとしたのは、一種の傲慢だったか(もちろん、すべてはたらればの話ではあるが)。
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
年末になると、1年を振り返りたくなるのが心情である。
今年はライターとして働き始めたのもあって、それなりに充実した1年だったと思うし、今日まで飽きもせずnoteも続けている。
ただ、公開設定できないような失敗や手放したこともあって、時折そのことを思い出さないわけでもない。
だけど、過去は過去と、それがあるから今があるのだと、しっかり前を向いて進まねばならないのだ。
そうだろう。オールド・スポート。それではまた次回!
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