【電気湯伝記#04】 徒然:まちなかに、対話の余地を(24/03/02)
みなさんこんにちは。いつも連載にお付き合いいただきありがとうございます。ようやく暖かくなってきたかと思えば急に寒い日が続き、ちょっと風邪気味になってしまいました。今回は、本筋から外れてしまいますが、そもそもこの連載がいったい何を目指している/いたのかということと、最近自分の考え方に大きな変化があったのでそれを書きます。■
「電気湯伝記」の目的(だったこと)
この連載は、副店長の長谷川(木曜番台担当)から1年ほど前にもらった、『電気湯伝記』というブログを書いてはどうか、というアイデアと、もう一人の副店長の正木(火曜仕込み担当)から「今年は週一でnoteを更新してください」という(なかなか過酷だけど楽しい)任務を受けて始めたものです。(週一では更新できていないですね。ガッデム。)
当初『電気湯伝記』は、電気湯を通じて考えたこと・感じたことなどを日記のようなエッセイとして綴っていく場所にしようと思っていました。ですが、電気湯についての話を書くなら、そもそも銭湯について、僕らが(主に僕ですが、電気湯として)銭湯のような生活空間にどう向き合い、どう捉え、なぜ「銭湯は必要です」と大声で言い張るのか、といった電気湯を続ける上での大きな問いと前提を細かく記していかなければ、電気湯のことを書いてもあまりよくわからないのではないか?と思い、とりあえずその前提と問いへの答えをシーズン1の主軸としています。そして、シーズン1の終着点は「このまちに銭湯は必要か?」という(僕にとって非常に)大きな問いに対し、銭湯という空間の代替不可能な価値を見つけることを通じてある程度の強度をもった答えを導き出すことでした。(過去形になっている理由は、イントロで書いた「考え方の変化」と繋がっていきます。)■
「銭湯の代替不可能な価値」がもたらす帰結
さて、電気湯を継いでから、僕はずっと「市民的な公共性が足りないんじゃ!オラ!」的なことを叫び続けていました。何も共有していない(もしくは共有するものが限りなく少ない)他者と生きていける「人間性の根源の善意」みたいなもの(なんて言ったらいいのかいまだにわかりません)が、広がりのある「我々/僕たち/私たち」という思いやりのある連帯をうみ、人権や共生、公共につながってくる、と。そして、その「我々/僕たち/私たち」という想像の共同体が限界に達した時、まだ見ぬ他者と対峙し、対話・調停するための姿勢が、これまた「人間性の根源の善意」であり、その過程を通じて市民的な公共という真理のようなものに辿り着けるはずだ、と。■
LGBTQ法の議論のさなかの「トランス女性だと偽る男性が女湯に入ったらどうすればいいんだ。」という声が、しまいにはLGBTQ当事者への心無い言葉として増幅し、SNSやテレビ等で論争になっていたことは記憶に新しいと思います。その多くは当事者を心なく揶揄するだけの酷いものでしたが、これに対し、銭湯という公共施設を営む一人としてブチギレのお気持ち表明記事も書いたりしました。(『自分だけの代名詞など存在しない』(23/04/08))
ただ、このブチギレお気持ち表明では導き出せなかったものが、「銭湯という開かれた公共空間(であるべき空間)が、制度的な排除に加担したままでいいのか」というところでした。つまり、(1)銭湯は緩やかな紐帯による「我々/僕たち/私たち」を拡張することができる(かもしれない)、(2)しかし現状、男湯・女湯という区分けをしている以上、そもそも性別の二元論では語り得ない他者に対してその機会は明確に閉じられている、ということです。これが先ほど書いた、「「我々/僕たち/私たち」という想像の共同体が限界に達した時」であり、当初は、これに対して銭湯という空間ができることは無いに等しいと感じていました。■
上記の悩みは登壇・対談等の色々な場所でお話をしているのですが、結局のところ答えは見つからず、この問題について見て見ぬふりをしたまま『電気湯伝記』を書き始め、「このまちに銭湯は必要か」という問いに立ち向かうことになりました。無意識に隠されたこの不協和音が、最近になって「いつか、「このまちに銭湯が必要だ」と主張する理論が完成する時には、銭湯という空間が可能にする共同体の限界がはっきりと見えてしまうかもしれない」という絶望感をもたらしました。この連載のシーズン1の大まかな流れが完成してしまったことで、むしろ、実証的で根拠があり確かな理論に裏付けされた真理としての「銭湯の代替不可能な価値」を導き出すための道のりが「銭湯なんてなくてもいいじゃないか」という帰結をもたらしてしまうのではないか、と心底怖くなってしまったのです。(これに加えて、そもそも僕自身が電気湯と自己同一化しすぎてしまったが故に、銭湯が経済的にも理念的にも現実に対して歯が立たなくなってしまった時には、もはやどう生き続けていいのかわからなくなってしまいそう、という大きな実存的不安も感じていました。辛かった。)■
唯一の答えへの執着
僕は、小学生の頃からずっと「なにかこの世界を/私たち人間自身の共生をわかりやすく解きほぐすことができる真理が存在する」と思い込んできました。こうした単一の真理(上記の「人間性の根源の善意」だったり「銭湯の代替不可能な価値」だったり)を追求する態度は時に暴力的なものになりがちで、僕自身も身近な人の価値観ですら「そうではなくてこっちが正しいのでは?だってあの理論もあるしこの事例もあるしこうに決まってる」と無下にしてしまっていました。
そんな価値観を持っていたものですから、大学生の頃から身近になり始めた「対話」などという言葉/概念を極めて頼りないものだと決めつけ、ずっと避けて生きてきました。「この社会が非情なものではなく誰もが不幸にならないですむ世界だ」ということを示すために必要なものはただ一つの共生のための真理で、まどろっこしい「対話」のようなものは役には立たない、と盲目にも信じ込んでいたのです。
ですが、最近話題の『100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』』(朱 喜哲 著, 2024年, NHK出版)(以下、『100分de名著 ローティ』)を読んだことによってようやく、「「単一の真理」なんてものはない。それでも他者と生きていくには、自己を修正しうる場と、差異を認め合う対話を通じて、その先のにある”共に生きる(『互いを保護する(傷つけない)という最小限の目的をお互いに擦り合わせ』る)ための約束事”(道徳とか人権とか「法律」とか)をなんとか作り、それすらも修正し続けていくしかない」と反省するに至ります。この反省のおかげで、数年間色々なものに失望しきっていた自分から軽々と抜け出すことができて、毎日がキラキラしています。むしろ真理がないからこそ、お互いに対話し分かり合うことができるんだろうなあ、と。■
まちなかの対話に感じる可能性
さて、話は変わりますが、この「そもそも共通する真理などなく、あるのは対話と約束事」という考えは、そのまま都市の様相と課題にも適用できると思っています。
前回のnote(【電気湯伝記#03】都市に「住む」)にも書きましたが、現代都市では管理・監視を通じて予測不可能なもの/理解しえぬものを排除し、異質なものどうしを物理的・制度的に区分けすることで一定の「公共性」を保っています。この大文字の「公共性」には、まさに僕が固執していた「単一の真理」と同じような暴力的な気配があり、その価値観が最終的に行き着くところはまさに「このルール(≒単一の真理)に従えないものは人間ではない」というものです。■
2月半ばのことですが、電気湯の卒業生が最近修士論文を書き終え、報告に来てくれました。ハーバーマスの公共圏の概念(『市民が共通の関心について言説を用いて自由に相互調整する日常生活の場』/論文より引用)を実空間に適用し、ベルリンと東京(特に新大久保)で「発話」されたもの(路上園芸、グラフィティ/落書き、家具の放置、等々)、「発話」の主体(行政、地主、通りがかりの人、等々)、そして「発話」の舞台(物理的な空間要素)等をそれぞれの場所を例に比較する、という趣旨のとても面白い論文でした。東京では地主や行政による禁止事項の掲示などの「発話」と、それに対する「返答」のなさが治安の良さとか「(特殊な)公共圏が成立している」と認識されうる(論文では、この「返答」の不能を『「発話」しないことで応答を示した』と記述されていました)のに対し、ベルリンでは(日本と条例がほとんど変わらないにもかかわらず)「発話」し放題、「返答」し放題。地区によってばらつきがありますが、こうしたお互いに向けられている「再記述/返答される可能性」が緩やかな「公共圏」を形成しているのだなあと知ることができました。
そして、こういった再記述/返答の可能性について、単に発話に上書きするという意味ではなく、多様な返答が許されている場と捉えることができると思っています。路上園芸に対して、「キレイですね」と声をかけたり、「ご自由にどうぞ」と門前に置いてある食器や家具を持って帰って家で使ったりと、まさにお互いに投擲的投話を許容される場が、「公共圏」ではないかと。こういった観点で京島を観察していくと、このまちは人の手で作られた気配のする路地や建物などが多く、その「適当さ」が「返答」の余地を残しているのではないかなぁと思います。■
「真理としての公共性」ではなく、私的領域の復権を
最近、自分の読書ノートで「私的領域」「公的領域」というメモを見つけました。たぶんアーレントを引用した文章からのメモなので孫引きも孫引きで理解が絶対間違っていると思うのですが、とりあえず便利なので「公的領域」=何も共有していない(もしくは共有しているものが限りなく少ない)ものたちと対峙し生きる領域、「私的領域」=諸個人が「公的領域」へと踏み出すのを可能にする領域、と大昔のメモそのままで定義するとします。
冒頭でも書いたように、今まで電気湯では「市民的公共の復権だ!」というような意識で動いてきたわけですが、前述の定義をもとに考え直すと復権すべきは「市民的公共」ではなく「私的領域」なのではないか?と省みています。■
公的領域が拡大し、監視や管理によって国家的領域として固定化し、逆に私的領域が個人的欲求の充足と私的管理の領域として固定化した結果、『諸個人が「公的領域」へと踏み出すのを可能にする領域』が繋いでいた公私の領域の連続性が失われ、結果としてこの喪失はいわゆる「赤ちゃん化したおじさん」とか「SNSで暴言ばかり吐く人」とか、「理解できない他者に心無い言葉を浴びせてしまう鬼」を生み出してしまっているのではないか、と思うようになりました。(そもそもメッチャ理性を信じているので、本来的に人間は鬼だし赤ちゃん化した暴言マシーンだ!とかいう話になると「はあそうですか」みたいにしか言えないのでその反論への反論はマジ割愛)
その「私的領域」に対する問題意識と、「公私が重なり合う人格の理想形みたいなものはない。だからこそ自分の無自覚さを自覚し、修正し続ける場が必要だ」という気づきを、前出の書籍『100分de名著 ローティ』は的確に言い当ててくれていていました。
公的領域と私的領域の間の連続性の喪失によって失われてしまったあいまいな領域が、『持続的な関係をお互いに望むことを前提に、私的な信念を開陳し、自己を改訂に開きうるような』、『諸個人が「公的領域」へと踏み出すのを可能にする』ための領域だったのでは?そしてその「公共圏」を可能にする空間は、僕が【電気湯伝記#02】このまちなみはうつくしいのかで書いた「うつくしいまち」の条件では?そして、そういった個人の意思の表出(上記の論文でいう「発話」/『100分de名著 ローティ』でいう私的な信念の開陳)と、それに対する返答を許容する空間は、例えば、友人であり歩行者天国マニアの内海くん(https://twitter.com/uchiumi_k)が盛り上げている藍染め大通りの歩行者天国で見た、路上でご近所さんとご飯を共にする光景とか、僕が追い求める銭湯の理想像とか、結局は電気湯を継いでからずっと追い求め、観察し、作り続けて考えてきたものなのではないか?と思い至りました。■
軌道修正:誰も不幸にならないまちへ
そんなこんなで、この連載の目的地を大きく修正する必要性が出てきました。「このまちに銭湯は必要か?」という問いへの答えを導くための「銭湯という空間の代替不可能な価値」という真理を求めるのではなく、「このまちで、あらゆる場所で、他者と生きていくためにはなにが必要か?」という問いと、それに対する「もしかしたらそれは銭湯をはじめとした「公共圏」と(たぶん)呼べるようなものでは無いか?」という仮説を検証し、この公共圏という概念をもとに銭湯から「誰も不幸にならないまち」を目指すために、連載を続けていこうと思います。それでは。■
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