「マチネの終わりに」こそ、『神様が投げた紙ひこうき』と呼ぶにふさわしい
平野啓一郎さんの小説、『マチネの終わりに』をようやく読み終えた。年明けから読み始めたのでおよそ1ヶ月かかったことになる。先が気になってしょうがない小説ではあったけれど、それ以上に先を知るのがもったないようなどきどきするような、そんな小説だった。なので、他の本と並行して読んでいたとはいえ、「すこし愛して、ながく愛して。」というサントリーレッドの名コピー(糸井重里さん作)を思い出しながら、ちびちび読んでいた。
で、読んでみてどうだったか、である。点数をつけたり、星をつけたり、そういうことではなく、感想という形で僕なりにこの小説について人に話したくなった。読んだ直後の今だからこそ、温かくなった手で誰かの手を温められそうな、そんな気がする。
「結婚した相手は、人生最愛の人ですか?」
これは『マチネの終わりに』の背帯に書かれている言葉だ。この言葉からも分かるように、この小説は恋愛小説である。天才クラシック・ギタリストの蒔野聡史とRFP通信の記者の小峰洋子が、それぞれの環境に振り回されながらも、互いに惹かれ、すれ違い、葛藤していくという、もう思い出すだけで切ない恋愛小説である。恋愛と言うと些かポップな感じもするが、この蒔野聡史と小峰洋子の職業が文化的であることや、年齢設定が40代前後という点から、大人の知性と年齢不問の感性が織りなす、ある種ものすごく憧れる物語である。この物語の魅力を伝えるために、僕自身が伝えるべきだと思う点をいくつか紹介したい。
まず、この物語の根幹となる言葉に触れたい。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
これはこの小説においてとても重要な言葉である。蒔野聡史と小峰洋子が出会った日に、小峰洋子の話を聞いた蒔野聡史が小峰洋子に言った言葉だ。この瞬間、この言葉は二人だけの呪文のようなものになった。この「未来は常に過去を変える」という解釈は、この物語を深く体験する上でのビジョンのようなものである。知らなかった真実が過去を変えることもあるし、自身の変化が過去の捉え方を変える。過去の出来事は過去のものであるが、過去の出来事の記憶というのは今のものである。もちろんプラスの方向、マイナスの方向、両方に変わる可能性があるけれど、四方八方に希望があるかもしれない。そう思わせてくれるほど素敵な解釈だ。
次に、小峰洋子のヒロイン力について触れたい。
小説に限らず映画やアニメなど、古今東西ヒロインはいる。ただ、小峰洋子の切なさや聡明さは、理想的なヒロインという架空を超えたリアリティがある。そんな彼女の切なさや聡明さがよく表れている言葉がある。ギタリストとしての蒔野聡史の才能を彼女が評した言葉だ。
「彼は、神様が戯れに折って投げた紙ひこうきみたいな才能ね。空の高いところに、ある時、突然現れて、そのまますーっと、まっすぐに飛び続けて、いつまで経っても落ちてこない。……その軌跡自体が美しい。」
僕もできることなら紙ひこうきになりたい。もし僕が、この小説の登場人物だったとしたら、小峰洋子はきっと僕の才能をこう評すだろう。
「彼は、神様が奇をてらって折って投げた紙ひこうきみたいな才能ね。形自体は斬新であろうとしているけれど、長く美しく飛べたらいいなというささやかな思いが、他者を出し抜いてやろうという欲望に上書きされてしまっている。空の高いところに、ある時、突然現れたと思ったら、急転直下に落ちていく。……その軌跡自体がおかしい。」
余談はさておき、小峰洋子という登場人物を架空を超えたリアリティがあると言ったが、惹かれる相手のことをこんな風に喩えられる人が世の中にいるだろうか。しかも美人だなんて。聡明で性格も良い美人に一体誰が勝てると言うのだろう。物語を読み進めていく中で、そんな小峰洋子に愛される蒔野聡史に架空を超えたリアリティのある嫉妬をしてしまった。反省したい。
それから、この物語がくれたものについて触れたい。
どんな作品にもそれに込められたメッセージのようなものがある。登場人物の行動や価値観や、彼らの置かれた状況を通して、浮き彫りになっていく理想。蒔野聡史のクラシックギターのように、極限までシンプルなところに立ち返ることの大切さを教えてくれる。自分は本当は何がしたいのか。自分は本当は何をするべきか。上流の水を手に入れるのは容易ではない。だからこそ価値がある。この小説を最後まで読んで頂くと分かるが、物語が自分の中で続いていくような感覚になる。心の中で、どんな風に、『マチネの終わりに』のその後を紡いでいくかは、人それぞれである。物語を通して、きっと、今後解くべき問いが得られると思う。それが何かは分からなくてもきっと得られると思う。かつて、リリー・フランキーさんの小説『東京タワー』を、故・久世光彦さんがこう評したと言う。「これはひらがなで書かれた聖書である」と。この『マチネの終わりに』もそれに通ずるものがある。この小説が日本語で書かれたことに感謝したい。この物語がこの国に存在する意義と言う意味では、極めて抽象的ではあるけれど、この物語を読んだ後に、やさしい問いを立てられる人が増えていく予感がすることである。やさしい問いにはきっとやさしい答えが出るはずだ。
最後になったが、小峰洋子がこの小説を評すとしたら何て言うだろうか。彼女ならこう言うかもしれない。
「これは、神様が願いを込めて投げた紙ひこうきみたいな小説ね。」
一人でも多くの人が、この紙ひこうきを受け取ることを願う。
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