日本出版の萌芽:印刷はお寺におまかせを
2000年から20年で、本屋の数は半減※。子どもの頃よく足を運んだ身としてはちょっと寂しい気持ちです。
そもそも「本屋」はいつからあるのでしょうか?
商業的な本屋が登場するのは、江戸時代からです。(古本を売り歩く人がいたという記録は中世からありますが。)
それまでの本は、今で言うところの受注生産。
僧の勉学のために寺院が作ったり、偉い人の注文で作られる限定品で、現代のように本屋が販売しているのを買うスタイルではありませんでした。
ここでいう“本”には、写本と刊本(印刷本)の両方があります。今回は刊本に絞って、室町時代までの出版史をまとめます。
後編はこちら。
木版印刷と活字印刷
図画工作や美術の時間で、版画の経験はあるでしょうか。版木に図や字を彫って墨を塗り、用紙を乗せてバレンで擦る。
日本の印刷はまさにこの「木版印刷」の方法でスタートしました。本の場合は、見開き1ページ分の原稿を版木に彫ります。
版木は場所を取るので管理は大変ですが、1度作ってしまえばそこから何回でも刷れるので、大量印刷や増版が見込める本の製作に向いていました。
日本で最初の出版物
日本最古の刊行物は、仏の供養のために作られた小さな塔の中に入っていました。「百万塔陀羅尼」と呼ばれるものです。
これを作らせたのは、奈良時代の称徳天皇。
天平宝字八年(764)の藤原仲麻呂の乱で犠牲となった人々の供養と鎮護国家を目的に、100万個もの数が製作されました。
小さな塔一つ一つに、印刷された「陀羅尼」(祈りの呪文)が入っています。
印刷は国の事業として行われ、仏に供えられたことがポイントです。
平安の摺経と仏教版画
平安時代には和歌や物語文学が栄えて写本が多く作られましたが、刊本が作られることはありませんでした。
しかし中国・宋から輸入された刊本は注目されていたようで、藤原道長は宋刊本と思われる摺本の『注文選』(注入りの『文選』)と『白氏文集』を一条天皇に献上しています(『御堂関白記』寛弘七年(1010)十一月)。
また、当時の貴族は祈願や供養のために写経を行いましたが、これに準ずるものとして摺経を加えることもありました。
道長も、天皇の命で法華経1000部を摺り始めたことを記録しています(『御堂関白記』寛弘六年(1009)十二月)。
仏像の胎内に「仏教版画」が収納されることもありました。
仏や菩薩の図を刷ったもので、スタンプ式のものは「印仏」といいます。
寺社による仏書の開版
平安末期ごろから室町時代にかけては、大寺院で、学僧向けに経典と注疏・義疏(経の注釈をさらに解釈したもの)の開版が行われました。
僧の教科書を刷っていただけなので、和書はありません。
ここでは「春日版」と「高野版」を取り上げます。
春日版
奈良・興福寺では、法相宗の経典である『成唯識論 』、その注疏の『成唯識論述記』といった本が刊行されました。
刊行された経典は春日大社に奉納されることが多かったので、ここで刊行された本は「春日版」と呼ばれます。
興福寺は藤原氏の氏寺、春日大社は同じく藤原氏の氏神で、当時は神仏習合によって、この2つは同じ敷地内にありました。
春日版は匡郭・界線がなく、毛筆のような太字の書体が特徴です。
初めこそ学僧向けの唯識論の本が作られていましたが、鎌倉中期以降は『法華経』『阿弥陀経』など、庶民信仰者向けの本も作られます。
春日版の刊行は、奈良だけでなく京都や他の寺院にも影響を与えました。
高野版
「高野版」は、和歌山・高野山(地域名)の真言宗寺院で刊行された刊本群です。真言密教の本が多く出版されました。
僧の快賢が出版した空海著『三教指帰』は建長五年(1253)の識語から「建長本」と呼ばれ、旧日本古典文学大系の底本に用いられている良質な本です。
高野山は鎌倉幕府と縁が深く、御家人・安達泰盛も出版に関わりました。武家が出資した最初の例です。
出版の中心地だった金剛三昧院の経蔵には、今でも500枚以上の版木が収納されています。
高野版は、墨が濃く、紙は厚手で両面刷り、糊で紙を合わせる粘葉装が多いのが特徴です(江戸時代の高野版には袋綴じもあります)。
禅僧による「五山版」
鎌倉時代には臨済宗をはじめとする禅宗が伝来し、鎌倉・足利幕府は禅僧を重用。鎌倉・京都には「五山」と呼ばれる有力な禅寺が建立されました。
この時代の禅寺で出版された本を「五山版」と総称します。
五山版の土台を作ったとも言える人物が、夢窓疎石です。
後醍醐天皇、足利尊氏、その弟直義からも帰依された人物で、嵐山・天龍寺の開山や枯山水の完成者としても名高い人物です。
※開山は、寺院開創時の初代僧侶のこと
夢窓疎石が直義との問答によって禅の教えを述べた、五山版『夢中問答集』は、日本で最初のカタカナ交じり和文の刊本です。
五山版の特徴
中国・宋時代は、印刷技術が発展した“木版印刷の黄金時代”。次の元代もその技術を受け継ぎ、これら「宋元版」は日本にも多く将来します。
五山版はこの宋元版を復刻、またはその版式を模倣して作られました。
装丁は片面刷りの袋綴じ、版式に見られる匡郭 ・界線・版心 は、もともと宋元版のものですが、後に日本の版本のスタンダードとなっています。
五山版は、鎌倉時代こそ禅籍がほとんどですが、南北朝・室町時代に特に盛行し、漢詩文集や儒教書などの“経典以外の本”も出版されました。
しかし1400年くらいから衰退し、応仁の乱以降の刊行はありません。
地方における出版
室町時代には、五山版と大体時を同じくして、京都の外でも商人や武家による出版が行われていました。
仏教書を皮切りとしない、民間の需要を反映した出版物の登場は、江戸時代に現れる世俗的な本屋の萌芽と言えます。
堺版
泉州(大阪)・堺で刊行された「堺版」で有名なのが、堺の道祐居士という人物が正平一九年(1364)に刊行した『論語集解』。これが日本初の『論語』の印刷本です。
『論語集解』は、魏の儒学者何晏による撰とされる、完本で残る最古の『論語』注釈書。中国では失われた古注を伝えるものです。
室町時代にわたって版が重ねられ、「正平版論語」と呼ばれています。
また、応仁の乱以降、堺が国際貿易で栄えるようになった応永八年(1528)には、医学に精通した阿佐井野宗瑞が、明の医学書である『医書大全』を復刻し、初めて民間にむけた医書が出版されました。
大内版
周防(山口)は京都を手本に町づくりが行われ、朝鮮や明との貿易で栄えた“西の京”です。
仏典や漢籍、出版に必要な紙が多く輸入され、「大内版」が刊行されました。
14代大内政弘は応仁の乱にも参加した武将ですが、雪舟、一条兼良、宗祇、三条西実隆とも交流し、和歌や連歌をたしなんだ文化人でもあります。
政弘は「法華経」や『聚分韻略』(五山文学の虎関師錬編、押韻についての書)の刊行に携わりました。
大内氏の氏寺である興隆寺で開版された法華経の版木は、重要文化財として山口県文書館に保存されています。
まとめ
以上、奈良時代から室町時代までの出版史を概観しました。
古来より出版を担っていたのは寺院で、仏教関係のものが学僧むけに刊行されていたものが、武家の庇護のもと外典の本も作られるようになった、というのが大きな流れ。
娯楽のための本が出てくるのは、まだ先です。
次回は家康も関わった「古活字版」を取り上げます。
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