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読書記録2024.7 その2

 冊数こそ2ですが、1500字分溜まりましたので投稿することに。月を跨がずに済みました。


土井善晴『一汁一菜でよいと至るまで』(新潮新書)

 料理研究家として活動されてきた著者の自叙伝的なものですが、ところどころに著者の考えが語られているのが興味深いです。

 その中でも、美術好きとしては「美」に対する記述に興味を持ちました。実践的なところではたとえばこんな記述。

 経験を積めば見えるようになるのは間違いないようです。高麗茶碗でも、観ているうちに高麗茶碗の美の様式をつかめるようになる。それが普遍的価値の共有です。目でしっかり観たものは心地よさとして体に残り、それがどんなものかを人から教わり、話すことで検証できます。そうした経験と学びの繰り返しをしていると、体の中に美の枠組みができてくるのです。そうした物の美しさが価値として評価されているものは、お金では評価されていなくとも良いとわかる。そして、やがて好きなものと、良いものが一致してくるようにも思います。一瞬でわかるというものもありますが、その時々で自分自身が冷静でない時もあるので、しばらくそばに置いておく、しばらく見ないでしばらくして観る、ことでわかるものもあると思います。

pp148-149、太字引用者

 現代芸術にせよ刀剣・陶芸にせよ、時々「わからない」芸術に出くわすことは私自身、そこそこ鑑賞歴を重ねた今でもあります。そういうとき、著者の提案している方法は少なからず参考にできるんじゃないかと。

 本の中では河井寛次郎(民藝運動でも知られる陶芸家)に対する言及があります。著者が提唱する、ハレ(いわゆる「料理屋の料理」)に対する「ケ」としての家庭料理を、一般的な芸術(日本画・洋画)に対する民藝と重ね合わせている印象がありました。著者自身による、こんな言及がございます。

 料理屋でやってきた完璧な仕事を最上級と信じ込み、そうしなければ恥だとさえ思っていたのは、場違いな思い込みだったと思います。きれいに切り揃えるものだけがいい仕事ではなかった。きれいに切り揃えるものだけがいい仕事ではなかった。きれいに切り揃えるということだけが、よいのではない、そしてそれは、おいしさにつながることでもない。
 切り揃えられていないものが美しく見えたり、煮崩れた芋の方が事実おいしいこともあることが、だんだんわかってくるのです。それからというものは、わざと太さや大きさを揃えない、盛りつける前には芋は軽く潰すといったことをあえてやるようにしました。均一ではない、ムラをつくる方がおいしい、そしてそれは、家庭料理の特権と考え始めます。

P171

東海林さだお『もっとコロッケな日本語を』(文藝春秋)

 出色は高橋春男氏との対談「文章の書き方、教えます」。稀代のエッセイストがそのエッセイの書き方を、結構踏み込んで話をしてくれています。ユーモア路線のメリット、「破れかぶれ」と「ダメもと」のマインド、向田邦子のエッセイに対する鋭い分析、単なる「手抜き」ではない、改行を増やしている理由、タイトルを決める時の注意点などなど。失礼ながらテキトーに書いているように思っていたのですが、考えていることはむしろ戦略的。勉強させていただきました。

 それ以外ですと「挨拶はとてもむずかしい」もなかなか、妙にかしこまった書き出しに笑ってしまいました。ここだけ引用しても多分伝わらないと思いますが(笑)

 春うららのある夜、つれづれなるままに古いビデオを観ていた。 
 溝口健二監督の映画で、笠智衆が道で知ってる人に出会い、ヒョイと帽子を取ってお辞儀をする場面があった。

P156

 それにしても、溝口健二監督の作品に笠智衆って出てたかしら… サイレントとかならちょっとわからないんですが…。

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