ジル・ドゥルーズはミシェル・フーコーに宛てた手紙にこう書いている。 「自分は社会の除け者気取りの連中[自分をマージナルと称する連中]に対する、ミシェルの嫌悪をぼくも共有する。狂気、犯罪、倒錯、麻薬といったものにあるロマンティシズムは、ぼくにもだんだん耐え難くなっている。しかしぼくにとり、諸々の逃亡線、つまり欲望のアレンジメントとは、社会の除け者気取りの連中が作るものではない。反対にそれらの逃亡線は、一つの社会を横切っていく客観的な線なのだが、社会の除け者気取りの連中は、一つ
七年くらい前に(鬱状態のなか)書いた小説のための序文を公開します。この序文に続く小説は別の形で書いていますが、序文自体は破棄します。当時、ナボコフの影響を受けていたと思われる(笑) ☆ この《小説》はまず作者であるわたし自身のために書かれている。 欲望がゼロになることへの恐怖が、わたしにこの《小説》を書かせている。 かつてジョルジュ・バタイユはこう書いた。 「何ものかが私に書かせている。思うに、恐怖が、狂ってしまうことへの恐怖が、私を書く行為へ
SNSのタイムラインに疲れ、いいね!にも疲れ、閉塞感というかもはや窒息感しかないので、雑記用にブログをはじめました。よろしければご覧ください。 https://satocchi.hatenadiary.com/ noteには小説や哲学的考察を書いていく予定です。
私がどのようにして哲学の道に入りこんだのかを書いてみようと思います。大学に入学する以前は、哲学にはまったく興味がありませんでした。社会科の授業でも出合い損ねた。夏休みの課題図書として山崎正一の新書を買わされたが、読まずにインチキなレポートを提出した。 哲学、精確には西洋哲学との出合いは大学に入学して訪れた。 私は大学では小説を読んだり書いたりしようと思っていたので、機関誌を発行している文芸サークルに入部しました。ところが入部してほどなくして、確か朝早い時間だったと思うけど
文章を読んでいないときでもある意味では読んでいるのであり、そして何事かを考えている。文章を書いていないときでもある意味では書いているのであり、そして何事かを考えている。そして、文章を読んだり書いたりしているとき、単にその文章を入出力しているのではなく、様々に思考をしている。
こんばんは。ご無沙汰しています。 如何お過ごしでしょうか? 私は師走に相応しく忙しくしています。部屋を掃除したり髪を切ったり読んだり考えたり書いたりと。 そう。いま新しい小説を書いています。それも二つ同時にです。 一つは『性徴』という名前のサーガです。いま第三部まで構想がありますが、書くのに数年はかかるかと思います。のんびりいきますが、もしかしたら第一部が完成した段階で、送りつけるかもしれません。 もう一つは、仮のタイトルを決めて、冒頭部分を書きはじめました。今までの自分の
連載中の「GRRL」という小説なのですが、継続が不可能な状況になり、無期限に休載することにしました。大切な読者の方々には申し訳なく思っております。ごめんなさい。 休載の内在的な理由。「GRRL」には長大なプロットが存在するのですが、そこで語られるはずの物語と自分の信念がどうしても折り合いがつかなくなってしまいました。物語を書き/読むことは人を救いうると思うのですが、自分の書いているものに〈信〉をおけなくなってしまいました。 休載の外在的な理由。「GRRL」は一年以上前に書
アーレントの活動性の三区分に従うなら、思考への引きこもりは労働と類比的に考えることができる。鬱は思考への引きこもりであり、或る種の動けなさである。逆に仕事や活動は動くことである。鬱とは動き始めることが出来ないことだが、では開始を開始させるのは何か。簡単に言うと、仕事でも家事でも勉強でも何でもいいけど、やる気がなくて始められないとする。「とりあえずやってみる」の手前で、「やってみる」という気力すらわかない。いやな考えだけがぐるぐるする。魂の労働と呼ばれるやつだ。たまのサボりは楽
実は自分にとって哲学は二次的な価値しか有していません。じゃあなんでお前は哲学についてばかり書いているのかと問われれば、人生にとって大切なこと、つまり自分にとって一次的な価値があるものはたいていはカント的な限界確定の外側、ウィトゲンシュタイン的に言うと語りえぬものであるからだ。それらは、観想や祈りの対象だ。哲学に出来ることは精々、観想や祈りの対象、すなわち宇宙や自然そして/あるいは神に突進する無謀を企てるのが関の山だと思います。哲学そのものが祈りや観想であるわけではない。(これ
予告していた『若草物語』についての記事は断念。あまりにも好きすぎて、そのきもちをうまく文章に落とし込めない。ちっぽけな分析で大切なあの物語のキラキラを穢したくはない。待っててくださる方が、もし、いらっしゃったならごめんなさい。
Louisa May Alcott ”Little Women”(邦題:若草物語)についての長文記事を準備中です。とりあえず解釈のサンプルとして映画化作品を可能な限り全部見る。
〈アントワネット〉のロッカールームは女装子たちの休憩室の役割も果たしており、それぞれが思い思いに暇な時間を潰しているのだが、平日は個室の〈客〉も少なくて、暇な時間が多くなり、毛布にくるまって寝ている者、ケイタイをいじっている者、漫画や本を読んでいる者、お喋りをしている者など様々で、わたしはと言えば、寝るほど心に余裕はなく、ケイタイ嫌いで、読みたいものもなく、話を聴いてくれる相手もなく、部屋の隅でうつむいていた。 大学に在学していた最後の年、24歳の時にネットの掲示板で知った〈
乱視的な読書から通読を目指す読書に切り替えようと思います。多少の参考文献には目を向けつつ、ひと月の課題図書を決めました。一冊は岡村康夫先生の『無底と戯れ』を。それから英語原書ですがHannah Arendt "The Life of the Mind"(『精神の生活』)を。
□スピノザの裏口 ■文献表 S:ジル・ドゥルーズ、鈴木雅大訳『スピノザ──実践の哲学』平凡社ライブラリー、2002 DT:小泉義之『ドゥルーズの哲学──生命・自然・未来のために』講談社学術文庫、2015 SS:スピノザ、吉田量彦訳『神学・政治論(上)』光文社古典新訳文庫、2014 ■無知こそ不幸、認識こそ治療 スピノザは〈完全で幸福なアダム〉なる神話に対して、ドゥルーズは〈完全で幸福な子供時代〉なる神話に対して、決然と反旗を翻す。(DT:p.141) [……]幼な児は
W. H. Audenの詩をネットで突き止めたので、粗雑ながら翻訳してみます。 Funeral Blues Stop all the clocks, cut off the telephone, Prevent the dog from barking with a juicy bone, Silence the pianos and with muffled drum Bring out the coffin, let the mourners come.
「ちょっと待って 僕の話を聴いてよ 真剣な話なんだ」(Sherbets「教会」) 「何も隠されてはいないのだ。」(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』§435) 親愛なる者へ 先日、喋ったばかりだから、さっそく本題に入りますね。私たちにとっては未知の話題です。最近はウィトゲンシュタインを読むことも、ほとんどないのですが、別の哲学者の本を読むときにふとウィトゲンシュタインの哲学全体に関わるテーマと自分の思考が交錯していることに気づかされます。そのテーマとは〈知の不知〉(知って