私信:何も隠されてはいないのだ

「ちょっと待って 僕の話を聴いてよ 真剣な話なんだ」(Sherbets「教会」)

「何も隠されてはいないのだ。」(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』§435)

親愛なる者へ

先日、喋ったばかりだから、さっそく本題に入りますね。私たちにとっては未知の話題です。最近はウィトゲンシュタインを読むことも、ほとんどないのですが、別の哲学者の本を読むときにふとウィトゲンシュタインの哲学全体に関わるテーマと自分の思考が交錯していることに気づかされます。そのテーマとは〈知の不知〉(知っていることを知らないこと)です。飯田隆先生が『ウィトゲンシュタイン──言語の限界』(講談社)のなかで分かり易く説明しているので引用しますね。そんなに難しい話ではないです。

《西洋の哲学の歴史の全体を通じてもっとも有名な言葉のひとつは「多くの人は知らないのに知っていると思っているが、私は自分が知らないということを知っている」[〈無知の知〉]という『弁明』のなかに出て来るソクラテスの言葉だろう。ウィトゲンシュタインの考え方は、この正反対である。この言葉をもじって言うならば、「哲学にはまりこんだ人はみな、知っているのに知らないと思っているのだ、そして、私の役目は、本当は知っているのだということ[〈知の不知〉]をそうした人々に思い出させてやることだ」というのが、ウィトゲンシュタインの立場である。(p.316)》

『論理哲学論考』の梯子の喩えは有名ですが、ウィトゲンシュタインは哲学を捨てるために哲学をしている節がありますね。そういう観点からウィトゲンシュタインの沈黙期を考えてみるのも面白いかもしれませんが、今は措きます。
ところで、先日あなたは私にこう言いましたね。「auxoは西洋哲学から離れつつあるのではないでしょうか」。ドキッとしました。そう、確かに私も哲学を捨てようとしているのかもしれません。
話を〈知の不知〉に戻しましょう。例えば、私は「啓示」や「救済」について考えています。フーコーが(グノーシス的な)「トマス伝説」を分析したときに述べたとおり、「啓示」や「救済」はどこか果てしない遠方の未来にあるものではありません。「啓示」は既に与えられている。私たちはそのことに気づかず、知っているのに知らないと思い込んでいます。「救済」は既になされている。私たちはそのことに気づかず、救われているのに、救いとは何か知っているのに知らないと思い込んでいます。
詳しくは知りませんが、道元も「悟り」を〈知の不知〉の構造で考えていたようです。
知識と智慧を区別するとして、そして私はくだらない知識遊戯から脱却して、智慧の生活に移行したいのですが、智慧は知識の増大とは無関係で、したがって線的に表象される空虚な時間の突端、すなわち未来にはありません。

智慧は目の前にあります。目から鱗が剥がれたら見えるのでしょう。

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