冷えと反感、熱と共感
「共感」と「反感」という2つのベクトルは、私たちの営みのあらゆるところで働いていて、そのどちらも非常に大切な働きを担っています。
たとえば私たちが何かを「食べる」ということは、食べ物を吸収して自分自身に取り込んでいるのですから、それは食べ物に「共感」していると言えます。
たいして私たちが何かを「考える」ということは、私たちの中にある漠然とした概念を、言葉として吐き出し、外側から客観的に捉え直すことですから、それは「反感」の働きと言えます。
シュタイナーの考えでは、幼少時にファンタジーの世界を生きることを重視していますが、それは共感反感の区別で言えば、共感的な働きのことであり、共感的な語り口のことです。
以前の記事(「お~い!ボクだよ~!」)にも書きましたが、たとえば太陽ひとつを語るときにも、反感的に語ると「宇宙空間で核融合を続ける無数の恒星のひとつ」というふうになりますが、共感的に語ると「いつも明るく微笑んで、みんなをポカポカ暖めてくれる優しいお陽さま」となるのです。
私は髪の毛が薄く頭を坊主にしているので、ときどき初対面の子どもに「どうして髪の毛がないの?」という、超ド直球な質問を投げかけられることがあります(笑)。
そのときに「男の人っていうのはね、男性ホルモンっていうのがからだの中にあるんだけど、それが大人になって増えてくると髪の毛が抜け始めるんだ。」という風に答えることもできますが、そんな時子どもはたいてい「ふ~ん」と言って、興味なさそうにどこかへ行ってしまいます。
おそらくですが、子どもからすれば「そんなことは聞いていない」のです。
しかも何というかよくよく考えてみると、抽象化して語ることで保身しようとするような「大人の言い訳」っぽいですから、正しく答えているようで何かズレてる。(ズラしてる?)
そうじゃなくって、子どもは「理由」を聞きたいのです。「理屈」ではなく。
「どうして髪の毛は先生の頭からいなくなってしまったのか」という「お話」を聞きたいのです。
「髪の毛がない」という事態の理由を訊いているのであって、その物語を聞かせろと言っているのですよ。(たぶん)
う~ん…でも何故なんでしょうね? 私にも分かりません。教えて欲しい。
ですから私はそんなとき、素直に「何でなんだろうね? 先生にもよく分からないんだ」と答えます。
そして「どこに行っちゃったのか、先生もよく分からないんだ。もしどこかで見かけたら、『先生が探していたよ』って伝えておいてくれる?」と、お願いするのです。
それがファンタジーと言えるのかどうかはちょっと分かりませんが(笑)、けれどもそれは「子どもが何を聞きたいのか」ということを、私なりにできる限り誠実に受け止めてのお返事であるのです。
なぜ子どもにファンタジーが必要なのかということは、挙げればいろんな理由がありますが、整体的な観点から大きな理由を挙げるならば、「共感」的な在り方が、からだを健やかに温めてくれるからです。
ファンタジーというのは、じつはそのまま体育なのです。温法であり、愉気であり、潜在意識教育であり、食べ物なのです。
反感的な語り口というのは、まだ小さな子どもたちにとっては冷たく硬すぎるのです。
そんな語り口の中に身を置くことは、絶えず冷たい北風が吹き付けているようなもので、そんな環境の中で、からだがのびやかに形成されることは、大変困難なことなのです。
スポーツで言えば、ホーム(地元)でプレイするのか、アウェー(敵地)でプレイするのか、それくらいの違いがあると言えばイメージしやすいでしょうか。
反感的な在り方、つまり客観的に考えることや、いろんなことを記憶しなければならないような環境というのは、今まさに熱を生み出し、自身のからだを作り上げていこうとする子どもたちからすると、大変ストレスフルな環境です。
シュタイナーは「幼少時にあまりに記憶を強いるような教育を施すと、晩年に神経症的な傾向を持たせることになる」というようなことを言っていますが、つねに頭を働かせ、必死に記憶したり、考え続けている人が、神経質であったり、からだが冷えがちであるということは、皆さんも何となくイメージができるのではないかと思います。
夜中に一生懸命パソコン作業をしなければならないときなど、どんなに温かくしていても手足が氷のように冷たくなってくる経験は、思考と冷えの関係を非常によく理解させてくれます。
そんなときにパソコン作業をいったん中断して、その作業について考えることを止め、ポカンとしながら瞑想や呼吸法など、自身の感覚に注意を向けることをしばらく行なってみると、再び手足がポカポカしてくることに気がつきます。
それは自分自身に対して「共感」しているということなのです。
自分自身を取り戻し、心身合一し、ホリスティックでマインドフルネスな状態になっていく。それこそが私たちの熱を活性化し、温めてくれるのです。
物事に対して、うかつに共感してしまうことなく、反感的な立ち位置を取ることを是とし、冷静に客観的に、そして批判的に物事と向き合おうとする現代人にとって、「冷え」というのは大きな課題です。
「自己分析」という名の下に、自身の熱からも遠ざかっていこうとする現代人は、ますます冷えていっています。
「冷え」という課題を克服するために、「温かな思考」あるいは「冷静な情熱」とでもいうようなものを、私たちは獲得していかなければなりません。
「反感」の力が強すぎるのが現代ですから、まず私たちが意識して取り戻していかなければならないのは、物事に対する「共感」的な振る舞いだと思います。
たとえば我が家では、物を捨てるときに「ありがとう」と言っています。
小さくなってしまった洋服や、古くなったオモチャなども、「そろそろありがとしよっか」と言って、「ありがと」と言いながらゴミ箱に入れています。
子どもに語る語り口としてやっていたことですが、今では子どもがいなくても何となく「ありがと」と言いながら捨てている自分がいます。
そこには温かさがあり、何かほっこりするものがあるのです。