見出し画像

読書記録(16)谷崎潤一郎『春琴抄』

新潮文庫、令和6年1月25日発行、第127刷。

被虐趣味を超え繰り広げられる絶対美の世界。文豪谷崎が到達した小説の神品。
美しく残忍な盲目の三味線師匠春琴と、喜悦を隠して尽くしぬく奉公人佐助。凄絶な師弟愛の行方は?

裏表紙より

「被虐趣味」「喜悦」とあるが、そのようなものはあまり感じられない。子はできているのでそれなりの関係性だと分かるが、春琴や佐助目線の自伝的形式ではなく第三者による伝聞口述的形式であるため、自ずと閨房描写は無く、したがってどのようなみそかごとが繰り広げられていたかは読者が想像するしかない。そこでSMが展開されている可能性はゼロではないが、少なくとも日常のやりとりにはそういった色はついていない。

そんなことよりも、佐助の人間性を通して感じられる人生哲学が味わい深かった。

丁稚奉公(商家の住み込み見習い)の佐助は、うわべでなく本心から自己抑制的かつ慇懃実直な性格の持ち主。知足安分を地で行く。

だから盲目の娘春琴の手曵きを奉公先から任された際は「自分のような低い身分の者に任せてくださるなんて」と有り難がり、春琴の三味線芸にはまこと感動し、その春琴から三味線指導を受けるに及んでは猛稽古にも音を上げずその薫陶に浴する。

普通の感覚の人たちは春琴のわがままや傲然とした態度に付き合い切れないが、佐助だけ甲斐甲斐しく(というか本心から敬って)春琴に師事し続ける。春琴とてその人間性はさておき三味線の腕前は他に比肩する者なく、そうなるとこの2人に疎しさ・妬み・敵愾心を感じる向きも出てくる。

ついに、ある夜、春琴は寝ている間に顔に熱湯をかけられ大火傷。花顔玉容を傷つけられた春琴は、佐助にだけは醜くなった顔を見られたくないと零す。そこで佐助は自分の目を針で刺し盲目に。春琴には「折よく病気に罹って盲目になり師匠の顔は見えなくなったので安心してください」と涼しい嘘をつく。抱き合い涙する二人。

この佐助の行いは、犯人へのカウンターパンチとしての側面もあり、自分が盲目になりさえすれば、春琴を辱めたいとする犯人の目的は満たされずに終わるという狙いだった。

こうした行動はすべて、春琴に対する純な敬愛で底を通じている。それは「被虐趣味」のようなものではなく、被虐を被虐とすら思わぬところに妙味があると思う。

「足るを知る」。これに尽きるだろう。奉公人という身分について足るを知り、春琴への必要以上の奉仕をして足るを知り、さらに盲目になって足るを知る。

しかも「足るを知る」どころか聴覚芸術の蘊奥に開“眼”する。盲目になったことによって師匠春琴の奏でる気韻にはじめて気付くことができた、と快哉を叫んでいる。

五感のうち何かが失われれば何かが冴えるとはよく言われることだが、佐助の場合はまさにそれであり、むしろ逆に「今まで自分は何を聴いていたのだ」と恥じ入りさえする。

「足るを知る」といえば、最近読んだ森鴎外『高瀬舟』も同じようなテーマだったと思うが、それより一歩踏み込んで「現状からの引き算」によってかえって何かを得ることができるという哲学が、本作の佐助から窺える。

ところで、本作は句読点が極力削ぎ落とされていることでも有名。だから「きっと読みにくいだろうな」と身構えていたが、意外や意外、ほとんどそのようなことは無かった。それどころか、無いなら無いでむしろ読みやすく感じることすらあった。

読点「、」は本当に難しい。自分で書いた文章も、書く時点で何度も打ち直して推敲したはずなのに、完成した文章を頭から読み直すと何か違う気がしてやり直す。それを次の日に読むとまた何かが違う気がして微調整。結局どこまで行っても正解ではない気がしてきて、「読点ってどういう時に打つんだっけ」とゲシュタルト崩壊する。

「だったらいっそ無くしてしまえ」という着想がこの実験的試みの動機ではないかと思われるが、なんとなく、視覚を失った春琴と佐助になぞらえている気がする。「視覚を失ったからこそ見えたものが二人にはある。それならば、句読点が無いからこそ読み取れることもあるだろう?」という作者の声が聞こえてきそう。

最後にひとつ疑問が。

このように足るを知り、師匠への絶対的敬慕の揺るぎない佐助が、何故春琴と情事に及んだのか。それだけが解せない。春琴からの誘いを断りきれなかったということだろうか。それならばやはり、受けて立つ佐助にどこか「被虐趣味」「喜悦」があったということ?それならこの投稿の前半の方で述べたことを撤回しないとならないが、真相はいかに。

*このシリーズの投稿はこちら*

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集