クリスマスの夜のこと【八〇〇文字の短編小説 #46】
ライアンはときどき、いつかのクリスマスを思い出す。三年前か四年前か、それとも五年前か、キングス・クロス駅で文字どおり息をのんだことが忘れられない。
その日の夜、ライアンは恋人のナンシーとフレンチレストランで夕食を楽しんだあと、寒さが包むロンドンの街を歩いていた。クリスマスだからだろう、キングス・クロス駅の周りは観光客であふれていた。浮かれた雰囲気をぼんやりと眺めているのはホームレスの人たちだ。誰も彼もフードかニット帽で顔を隠すようにして地べたに座り、年季が入った毛布で体をくるみ、紙コップで恵みを乞うていた。
ライアンの目は一人の女性に釘づけになった。灰色のニット帽から、古びれたほうきのような髪の毛が伸びている。虚ろな目で空模様を気にしている表情に見覚えがある。ゆるやかにたれた目とギリシャ彫刻のように高い鼻。そして真っ赤な花びらのようなくちびる。間違いない。大学時代に恋人だったアンだ。風の噂では、あのあと銀行に勤めたと聞いていたけれど。
不意にその女性と目が合った。かすかに笑ったように見えたが、気のせいかもしれない。ライアンは「どうしてあのアンがホームレスに」と思いながら、知らず知らずにナンシーの手を強く握っていた。ナンシーは「どうしたの、急に」とほほ笑んだ。
ホームレスになれ果てたアンの姿を見て、ライアンの頭は混乱していた。そして出し抜けに大学時代のある場面を思い出した。二人でアンのフラットで退屈を持て余していた。音楽が流れていた。確かストーン・ローゼズのファーストアルバムだったと思う。窓の外を見ると、ぽつりぽつりと雨が降り出してきた。アンは窓越しに小雨を見つめ、それから急に泣き出してしまった。理由は聞かなかった。ただ抱きしめることしかできなかった。
あのとき、何か声をかけていれば二人の人生も変わっていたのだろうか。ライアンがそう思っていると、空からゆっくりと雪が舞い降りてきた。
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