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ブラチスラヴァの夜【夢の話、または短編小説の種 #18】

ブラチスラヴァの夜に見た夢だったのかもしれない。

ちょうど十五年前の夏、わたしたち家族はプラハに旅行に出かけた。ブリストルの街を出るのは初体験で、家族の誰もかもにとって国外旅行は初めてのイベントだった。兄のニックは八歳で、わたしはまだ五歳になったばかりだった。飛行機に二時間ほど揺られての旅は父の発案だった。

実のところ、もうずいぶんと前の出来事だから記憶は曖昧だ。プラハのホテルに部屋が四つか五つあって家族でかくれんぼうをして遊んだこと、その夜、目を覚ましたら父も母もどの部屋にもいなくて恐ろしく不安になったこと、次の日、プラハ動物園を訪れ、猿のやんちゃな赤ん坊を見た父が「少し前のニックみたいだ」と笑ったこと……いくつかの場面はなんとなく覚えているけれど。

何日かたって──ニックが思い出すにはわたしたちはプラハからチェスキー・クルムロフという街を経由してオーストリアのウィーンに到着したという──母がホテルで朝食をとっているとき「ブラチスラヴァに行ってみましょうよ」とアイデアを出した。わたしはその言葉を聞いて、このうえなく素敵なイメージを抱いた。「ラヴァー(Lover)」という響きに引き寄せられたのだ。

わたしたちは電車でその街に向かった。あとで調べてわかったのは、ウィーンからブラチスラヴァまでは乗り継ぎなしで一時間ほどで着くということだ。母は観光ガイドを見て、たった六十分で首都から首都へ移動できる一泊旅行のアイデアを思いついたのだった。

到着したのは昼ごろだったと思う。文字どおりこぢんまりとした街で何かランチを食べた記憶がある。そう言えば、英語が通じなくて父も母も困り顔だった気がする。何を食べたのかはすっかり忘れてしまったけれど、父が「スロヴァキアの名物料理だよ」と教えてくれたことは覚えている。

わたしの記憶はそこから夜に飛んでいる。わたしたちは橙色の街灯が心細く照らす小道を歩いている。人通りは少ない。坂道か階段を登ったような気がする。ディナーを食べる場所を探していたのだろうか。

母が父に「九時前にはホテルにチェックインしたいわね」と話したとき、目の前にぼろぼろで薄汚れたTシャツとハーフパンツに身を包んだ男が現れた。足元のサンダルの鼻緒はどちらも切れていて、つま先が真っ黒に汚れていた。弱々しいスロヴァキア語で何か話しかけてきたけれど、わたしたちは誰も理解できない。英語で声をかけると首を傾げたその男は優しく卵を抱えるように両手を差し出してきて、つまりは物乞いだった。わたしはとてつもなく怖い思いをした。でも、父も母も落ち着いていて、その世捨て人に小銭を渡していた。

いくつかの硬貨を右手に包み込んだ男は手の甲を何度かたたいて、右手を開いてみせた。すると、そこにあったはずの小銭はなく、何か紙がたたまれてあった。男が控えめに笑いながらその紙を開くと、突然現れたのは「Bratislover」と書かれた観光客用のフライヤーだった。父も母もニックも笑顔になった。

わたしは不思議だった。その手品が、というより、オレンジの薄明かりのもとで見せられたまるで神のような不思議な力を喜んでいる三人の気持ちがわからなかった。わたしは夜が滑り込んできている通りに立ち尽くし、世界の果てにいるような気分になった。あの絶望感をときどき家族に話してみる。けれども、実のところ、誰もかれもそんな場面は覚えていない。

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