01. 茶のない茶会 【実験的妄想茶会】
「茶会」って何をするところなのだろう。「茶」がなくても「茶会」は成立する……?「茶道」にとって大事だと思われるものをなくしてみる。これはそんな実験的で妄想的な試みです。
「茶のない茶会?」
お茶の稽古は、毎週木曜日の夜。
あたりが暗くなってから始まるから、稽古が終わり、片付けをして帰路につくのはいつも日付が変わるくらいになる。使った道具を片付けながら、その日一緒になった稽古仲間と近況を報告し合ったりなどしているうちについつい話がはずみ、夜がさらに更ける。それがまた楽しいのだが。
そんな稽古仲間の一人から、お茶会の案内状を見せられる。
「そう。行けなくなっちゃったから、かわりに行ってきてよ」
ときどき稽古日が重なる姉弟子が、案内状を手にのほほんと笑う。
「茶会なのに、茶がないの?」
どなたの茶会なの? とか、いつあるの? とか聞かなきゃいけないことが頭をよぎるのに、思わず口に出たのはそんなことだった。
「そう。そうなの。私も詳しくは分からないんだけど」
「いつもすっごく面白い茶会なの。都合がつくなら行ってみて」
大丈夫、だいじょうぶ、とニコニコ笑いながら案内状を手に握らされる。何が大丈夫なのか、と思ったが「タクシーがもう来ているから」とパタパタと荷物をまとめ「あなたを誘ったことは伝えておくから」などと言いながら帰ってしまった。
――茶がないって、どういうことなんだろう。
コーヒーなんかの、「茶」じゃないものを出すってことだろうか。それともちょっと前に流行った「エアーギター」みたいに、飲む“フリ”をするのだろうか。
「――楽しそう」
手にした案内状を見つめながら、思わずつぶやいていた。
いったいどんな茶会なのだろうかと気になりだすと止まらない。よく知らない人の茶会に行くことには躊躇したけれど、結局「何が行われるのか見てみたい」という好奇心が勝ち、参加を決めたのだった。
抹茶は好きだ。
お茶をはじめて、家でもコーヒー代わりに抹茶を飲むようになった。あのふんわりと甘い香りも、びっくりするほど鮮やかな緑も、大好きだ。
だけど「茶会」独特の雰囲気をつくっているのは、「茶」そのものではないような気がしている。
しんと静まり返った空気の中に身をおくと自然と背筋が伸び、心が穏やかになる。隣に人がいても、その沈黙が心地よい。一度体験すると、あの緊張感がクセになる。
この茶会は「茶」を無くすことで、それを浮き彫りにしようということなのだろうか。
+++
迎えた茶会当日は、あいにくの雨だった。
私は雨の日が苦手だ。
髪は湿気でまとまらないし、泥をはじく水たまりは憎たらしい。雨だから時間がかかるかもしれないと、早めに家を出た。
「こんにちは」
カラカラと音を立てて木製の戸をひき声をかけると、広い漆喰壁に声が響いた。淡い水色の着物の女性に案内され待合に入る。
「――わっ」
目に飛び込んできたのは鮮やかな黄緑色だった。
新芽が生い茂った大ぶりの枝が室内に広がっていた。やわらかい葉々は濡れていて、外の雨を受けとっているようだ。
ポツポツポツと雨が屋根を打つ音が聞こえる。
どのくらい時間がたったのだろうか。魅入られたようにぼうっとしていたら、先程の女性に皆さん揃いましたからと席に進むよう促される。慌ててついていくと、すーっと襖が引かれて、薄暗い室内が見えた。
中に入るとここでも場を占拠している若葉の枝が目に入る。これもまたじっとりと水が滴っている。大きな障子戸が閉まった室内はぼんやりと明るい。置かれている道具は白竹に素地の木やマットな質感の白い陶器、使い込まれているのであろう鉄の肌……どれも素朴な風合いのものが並んでいる。ぼてっと平たく分厚いガラスの容器が、水の塊のようだ。
亭主らしき人物が静かに入ってきて礼をとる。きっとこの茶会を策した人なのだろう。だけど「茶がない」ことの説明はとくになく、簡単な挨拶だけで、茶会はスタートした。
新たに透明なガラスの茶碗と、シルエットが華やかな白磁の茶入れが運び込まれる。はじめは暗いと感じていた室内も、目が慣れてきたからだろうか、心地よい明るさに感じはじめていた。
亭主が道具をひとつひとつを清めていく。迷いのない、静かで芯のある動きが美しくて、つい目で追ってしまう。ガラスの器に湯が注がれ、白い布で拭われる。ガラスだから、器の中で起こっていることがよく見える。まだ暑い季節じゃないけれど、透明なガラスの器には水がよく映え、みずみずしかった。
――雨が似合うって、こういうことを言うのかもしれない。
まるで今日のお天気を散りばめたような室内に、空気がイキイキとして見えた。
――あっ
茶が入っているはずの容器は、空っぽだった。
竹の匙ですくう素振りをしているが、先には茶どころか何ものっていない。
でもその動作はなめらかで、不思議と「茶がないこと」に違和感はなく点前は進んでいく。茶碗に湯が注がれ、点てられ、目の前に出された。
中は透明なままだ。
―――なんだか不思議な光景だ。
手に取った器の中にあるのは、ただの白湯だ。でもそれをこんなふうに目の前で丁寧にていねいに用意され、隣に並んだ人たちが順々に厳かに口にするのを見ていると、すこし緊張した。目の前の湯が、なんだか特別なものに見えた。
――ああ、そうか。
これは「儀式」なんだ。
だれかと「共に飲む」という行為は、古くから、人が集まり団結を高めるための儀式に重要な役割をはたしてきたという。結婚式の三三九度の盃なども、そのもとを辿れば平安時代にまでもさかのぼるそうだ。
中学生の頃、「茶道」を英訳すると「tea ceremony(ティーセレモニー)」となることを知った。「ceremony(セレモニー)」とは「儀式」という意味だ。当時は「儀式」だなんてずいぶん大袈裟なことを言うもんだな、と思っていた。
でもいま目の前で行われているのは、まさしく「儀式」と呼ぶにふさわしい雰囲気があった。
ガラスの器から口に含んだ白湯は、優しく甘かった。
「水って、生命そのものみたいだなって思ったんです」
ひととおり“儀式”を終えたあと、亭主がポツリと話しだした。
「お茶は、中国では紀元前からあったようですけど、日本では記録にあるのは平安時代くらいから。一般の庶民が飲みだすのは江戸時代くらいからです。ヨーロッパに紅茶がもたらされたのは17世紀です。だけど、水がないと人間は……いや、生物は生きていくことが出来ません。水は、もっとも原始的で根源的な“飲み物”なんですね」
なるほど。
「今回、“茶のない茶会”をおこなうにあたり、じゃあ何をお出ししようかと考えたんですけど、それはやっぱり“水”だろう、と」
静かに話す声が心地よく響く。
「水は、自然界の中で固体、液体、気体と変化します。自然界の中で雨、雪、雲、霧、川、湖や海、氷と様々に姿を変えて現われます。雨として降った水は川から海へ流れ、蒸発し雲となり、また雨としてぐるぐると循環しています」
「それがなんだか、“命”そのものみたいだな、と思ったんです」
――そういえば……
この茶室に入る前に案内された待合に置かれていた蒸留器を思い出した。
キレイに掃除され、何も置かれていないガランとした室内に、ポツンとそのガラスの器具が目立っていた。まるで美術館かギャラリーのアート作品みたいだった。
理科の実験のような器具には、下部に白いろうそくが置かれ火がついていた。その上のガラス容器の中では湯がグツグツ湧き、ガラスの壁面が水蒸気で曇っているのが見えた。一番上には氷の入ったガラスの器が乗っていて、冷やされた湯気が水滴に変わって滴っていた。透明なガラスと透明な水の様子がとても美しかった。
――そうか。あれはその“循環”を表わしていたのか。
+++
なんとも美しい時間だった。
そして強烈な印象の茶会だった。
……「茶会」と呼んでいいのかはわからないけれど。
私が茶会に求めている、心地よい緊張感はたしかにそこにあった。「茶」がないことで、茶会の“儀式”的な雰囲気が、より一層際立った気がした。
帰り道、雨は止んだけれど、まだ降り足りないような表情の空を見上げた。
……家に帰ったらこの空を眺めながら、もう一杯お水を飲もう。
雨の日は苦手だったけれど、今日の雨は心地が良い。
茶会での光景が浮かんで、水が、なんだかとても愛しいものに見えた。
「茶会」というのは、日常の出来事を切り取って、ちょっとだけ特別なものにしてくれる「魔法」みたいなものなのかもしれない。
空はまだ曇っていたけれど、晴れ晴れとした気分で水たまりに足を進めた。
《終わり》
撮影協力:中山福太朗
素材提供:Unsplash.com