【小説】カラマーゾフの姪:ガチョウたち(6)
○舞台:2020年の喫茶店。一つのテーブルに四人の若者。
○人物
・小芳:弥生恵の友達。アーカイブに興味がある。曲丘珠玖にITの技量を試されていた。前回の終わりで「賢者の石」とか言い出した。
・彩田守裕:大学院で数学を研究する院生。小芳とは初対面。
・弥生恵:彩田の従弟。大学2年生。小芳と同じサークル。
・曲丘珠玖:ITフリーランスの女性。彩田の最近の友達。同い年。小芳と論争中。
前回はこちら
(曲丘珠玖)
「賢者の石、面白い比喩ですね。一体いつの時代の話なのか。誤解の無いよう言っておきますが、私は未来を否定しません。技術的進歩の恩恵を喜んで受けます。技術は奴隷を解放しましたから。医療も豊かになりました。私が否定するのはあなたの未来への態度です」
(小芳青年)
「……僕とは反対ですね。僕は、自分の未来への態度を正解だと思っていますし、現在の技術には不満を覚えています。奴隷解放は、持たざる人を路頭に迷わせました。貨幣の奴隷に変えただけです。医療も、……結局格差がある。だったら等しく身体から解放されればいい。資本主義を維持する現在なら、さっさと未来と交替するべきです」
「小芳さん」曲丘は目を閉じた。「君は幸せにはならないでしょうね」
小芳は目を丸くした。
「君は過去や歴史を直視しない、記憶がない。君は情報の収集家でも、昔を偲ぶ追憶屋でもない。枠組みを作りたい芸術家でも、腕を試したい遊戯屋でもない。君は現存在としてアーキビストになれないから、非常に不幸になる。アーカイビストなら過去の実在を受け入れなければならない。歴史を引き受ける素質がなければならない。世界を肯定している。……それを手段とするならば、人間の不死や復活は望むべきではないでしょうよ。不死も復活も、人生に不満があるから望むのです。否定したい過去がなければ望まないもの。過去を引き受ける覚悟がない証です。ましてそうした不死と復活の世界規模の試みは、人の一生を超える時間が要る。そんなことは、既存の歴史記憶から断絶された彼岸を望んでいるから起きる」
小芳は真摯に耳を傾けていた。
「歴史に興味も敬意もない人間なんて何時でもどこにでもいる。そういう人間を、そういうニューラルネットの持ち主を否定したいとは思わない。それがその人の存在なのだから。その人が背負うことになる歴史家との闘争も含めて。けれど、そういう人間が未来を語るのは頂けない。未来とは未だ来ていないこと、それは時間の先に来ることを指す言葉です。今の先に決して来ない時間、どこにもない時間を、ユケイロスを未来と混同しないでください」
小芳は視線を下げた。
「君は、自分が見たい未来を見たくて都合のいい過去を集めようとしている。……まあ、その確執こそ病的ですが、未来が視えないから過去を集めようとすること自体は健全な人間性ですよ。未来とは文明が生んだ幻想でしかない。本来、未来とは繰り返される過去でしかなかった。だから情報の継承は健全な営みであり、未来は透けて見えるものだった。問題は文明の方です。文明という完結の見透かせぬ出来事が、ヒトの寿命を遥か超えたタイムスケールで展開し続けているから、過去の集積は未来を見せない。過去の存在は甦らない。それはユートピアにしか通じない。過去の存在に縋るのではなく、現存在が覚悟を決める、……そうでなければ、その魂は救われませんよ」
小芳は吐き捨てるように笑った。「……分かってますよ。自分が幸せになれないことくらい」
「だったら、どうしてそんなことするんです」
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