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“なにか”でないといけない大人と、“なんにでも”なれる子供

お正月休みはゼンタングル🄬に触れ合う機会を増やしていました。
とはいえ、もっともっと描くつもりだったんだけど💦
(風邪ひいてしまいまして、思うように片付けもできんかった😢)

昨年受けたセミナーや先輩 CZT の作品やインスタライブなど
少しずつ見直しています。
この時間が幸せなんだよね~🍀



思い出しながら、新たな絵を描きながら過ごしていたある時
鮮烈な言葉が蘇ってきました。

大人になると、すべてが “なにか” でないと
いけないと思ってしまう。
子供の絵はどれも抽象的で、アートそのものなのに。

セミナー中に聞いた言葉だったのですが
とても響いたんですよね。

◇◇◇


子供の頃って、ごく単純なものや小さな変化であっても
新鮮でおもしろくて、宝物のような経験が
目の前に転がっていましたよね。

初めて見る、聞く、嗅ぐ、触れるが日常に溢れていて
それを伝えるのも感覚最優先でした。

自分の子供たちを見ていてもそう。
幼稚園の頃に描いていた絵は、
線は粗いし、よくわからないフォルムだったけれど
大胆で楽しそうな絵や、ありえないほどカラフルな着彩でした。

描いている時はきっと
ぶわ~っと楽しいものが浮かんでいるんだろうなぁ!
そんなワクワクする絵になっていました。

現実世界にあろうがなかろうが、
それは彼らの脳内に確かにあったんですよね。
そう、なんにでもなれるし、なんでも生み出せた!


それが、年齢を重ねるごとに変化するんですね。
「現実」にあるものにどんどん寄っていくんです。
絵であれば技術は「上手く」なっていたかもしれない。
でも現実世界で見た時におかしくないように
大胆さはなくなりました。

「上手い」「上手くない」という判断に縛られるようになるし
現実に理解できるかどうかが大事になってくる。
もし理解できないようなものが浮かんだとしても
描く側が自ら恥ずかしがって
人前には出さないようになっていくんですよね。

美術の絵を貼り出されることを嫌がる人が成長すればするほど
増えていったことが証明しているように思います。

大人はとかくメリット、デメリットなど具体的なことを気にする。
それも大事なことではあります、確かにね。
でも大人の方が、行動や目の前のものがなんであるのか
常に小難しく考えてしまっているんだなぁ!



もともとはアートに関する話でしたが、
これってすべてにおいてそうだと思いませんか?

小さい頃は損得勘定抜きで、楽しいとか嬉しいとか悲しいとか
得られた感情に正直に行動していましたよね。

しかし成長し、具体的なもので埋め尽くされた社会に出て
具体的なものを相手にして生活している毎日では
「そうでない」生き方が難しくなってしまうんですよね。

もちろん、抽象的だけでは生きていけないし
具体的に行動しないと毎日健康的に生き抜けません。

でも昔できていたこと。
具体的なものだけ正解ということではなく、
抽象的なものも大切にしながら日々過ごすことができたら。

もっともっと自分自身も柔軟になれるし
新しいアイディアや楽しみが生まれてくるんじゃないかなぁ。

是非、子供の頃のような抽象的で柔軟な発想を否定しないで。
そこに生きていく「楽しさ」が隠れているのではないでしょうか✨

今年はそんなことを考えながら
どこまで楽しんでいけるか、
私もどんどんチャレンジしてみようと思います😊

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