ハーバード滞在記(前編)~「春・夏」の巻
ハーバード大学へ赴任
現役時代、所属していた大学から研究休暇をいただいた。
またとない機会なので、交換協定に乗っかって、ハーバード大学に赴任し、訪問研究員として1年間滞在した。
ハーバード大学は、米国マサチューセッツ州ボストン近郊のケンブリッジという地区にある。
イギリス植民地時代、1636年に創設された米国最古の高等教育機関だ。
言わずと知れた名門中の名門で、世界の大学ランキングでは、つねに最上位を競っている。
米国の大学は、研究教育機関としての学風も、キャンパスの風景も、日本の大学とはだいぶ異なるところがある。
呆けて忘れてしまわないうちに、記憶を掘り起こしながら、四季に沿って、滞在記を綴ってみようと思う。
ケンブリッジのアパート探し
交換協定があるとは言え、大学は補助金と研究上の便宜を与えてくれるだけで、生活面はすべて自分でまかなうことになっている。
まずは、アパート探しから始まった。
現地到着後、しばらくの間、B&Bに宿泊し、複数の不動産業者を介して、じっくり10軒ほど物件を見て回った。
が、よくある話で、結局、一番最初に見た物件に落ち着いた。
入居したのは、大学まで徒歩約10分、閑静な通りに面したレンガ造りの古いアパートだ。
ケンブリッジは家賃が高く、補助金の半分が賃料で消えてしまった。
ともかく、部屋が決まったら、次は、家具の購入だ。
1年間だけの滞在なので、ベッド、ソファ、食卓、テレビなど、大きな家具は、すべて中古で揃えた。
食器、扇風機、電気スタンドなど、細々とした日用品は、道端で拾った。
この地域では、要らなくなった家財道具は、「ご自由にどうぞ」と、道端に置く(捨てる?)のが慣習だそうだ。
不要品の有効な再利用だ、エコだ、ということらしい。
なんとか住める状態になったら、次は、銀行の口座開設、健康保険の加入、電気・ガス・水道の契約、ネット環境の準備など、あれこれ面倒臭いことが待っている。
研究生活を始動させる前に、ずいぶんとエネルギーを使ってしまった。
ジョン・ハーバードの銅像
キャンパスの中央に、ハーバード大学の創設者とされるジョン・ハーバード (1607ー1638)の銅像が建っている。
「銅像の足に触れると幸運が訪れる」とか言ういい加減な言い伝えがあり、訪れる人々がみなスリスリ撫でるので、靴だけ塗装が剥げてピカピカ光っている。
銅像の台座には、
「John Harvard Founder 1638」(創設者ジョン・ハーバード、1638年)
と刻まれているのだが、実は、
1つ、 ジョン・ハーバードは、創設者ではなく、後援者の一人。
2つ、 ハーバード大学の創設年は、1638年ではなく、1636年。
3つ、 銅像のモデルは、本人ではなく、銅像を製作した当時の学生。
というわけで、「3つの嘘の像」(Statue of Three Lies)と呼ばれている。
ウソみたいな本当の話である。
ハーバード燕京研究所
わたしの配属先は、ハーバード燕京研究所(Harvard-Yenching Institute)という研究機関だった。
もともとハーバード大学と燕京大学(のち北京大学に併合)が共同で設立した研究所で、欧米における東洋文化研究の拠点の一つである。
研究所の図書館は、膨大なアジア関係の文献資料を所蔵している。
訪問研究員は、書庫に自由に入ることが許されていた。そこで、毎日、書架に挟まれた狭い空間にこもって調べ物をしていた。
いま思い返すと、はなはだ不健康な研究生活だった。
研究所には、中国・韓国・日本をはじめ、アジア各地から招聘された若手の客員研究員、数十名が籍を置いていた。
個人で、もしくは共同で、研究プロジェクトを遂行し、定期的に研究発表会を開いて切磋琢磨していた。
一方、研究所主催の交流イベントも頻繁にあった。
研究所の予算はよほど潤沢なようで、パーティやら、コンサートやら、観光旅行やら、あれこれ催しがあったが、費用を取られた覚えがない。
赴任してまもなく、研究所の所長宅でガーデンパーティがあった。
メインは、ボストン名物のロブスターと高級ワイン。飲み放題、食べ放題!
研究機関のアカデミズム
世界一なのだから当然だし、わたしごときが評価するのはおこがましい話だが、ハーバードのアカデミズムの充実度はすごかった。
ノーベル賞、チューリング賞、ピューリッツァー賞などの受賞者を輩出し、おまけに、大統領8名、母国に帰って国家元首になった元留学生が30名以上いるという大学だから、すごくないわけがない。
教授陣は超のつく有名な方々ばかりで近寄りがたいのだが、キャンパスを歩いている学生たちも、いかにも頭がいいぞ~、というオーラが出ている。
ビジネススクール(経営)、ロースクール(法律)、メディカルスクール(医学)、ケネディースクール(公共政策)などが、いずれも世界最高峰である一方、人文科学は、ハーバードの中では、あまり目立たない分野だ。
ましてや、東洋学などは、学内の隅っこにポツンというような、マイナーな存在だが、その東洋学だけでも、研究活動の質と量は半端ではなかった。
年間を通じて、ほぼ毎日のように、何らかの講演会や討論会、シンポジウムが行われていた。開催日時がかぶってしまって、どちらに参加しようか迷うこともしばしばあった。
一つの分野だけでこの調子であるから、全学レベルではいったいどれほどの研究活動、学術行事が同時進行しているのか、見当が付かない。
ハーバード大学には、学部ごと、研究分野ごとに、計90館あまりの図書館があり、蔵書は2000万冊を超える。
最大規模のワイドナー記念図書館(Widener Memorial Library)は、1912年にタイタニック号の沈没で犠牲になった蒐書家ハリー・ワイドナーの遺族が、ハリーの蔵書と建設費を母校ハーバード大学に寄贈して建てられた。
ワイドナー記念図書館の閲覧室は、あまりに荘厳で落ち着かない。
わたしには、燕京図書館の穴蔵の方が居心地がよかった。
学内には、図書館の他に、ハーバード大学自然史博物館(Harvard Museum of Natural History)、アーサー・M・サックラー美術館(Arthur M. Sackler Museum)、フォッグ美術館(Fogg Museum of Art)など、数多くの学術・芸術関連の施設がある。
日米、学ぶ姿勢の違い
滞在中は、学部や大学院の授業をいくつも聴講した。
わたしは中国文学が専門だったが、専門分野に限らず、広く人文科学の授業にモグリで出ていた。
なにしろ教授陣は、雲の上の人たちばかりだ。一年中、穴蔵にこもって古書と睨めっこしているだけではもったいない。
授業方式は、少人数クラスでは、教員と学生が対等の立場で討論する形式が主だ。
講義科目では、授業自体はオマケで、メインは膨大な参考文献の読み込みと頻繁に(ほぼ毎週)課されるレポートの提出だ。
授業で使ったパワーポイントなどの講義資料は、授業後、すぐに学内ネットワークにアップされるので、学生は出席しなくてもよい。
そもそも、米国の大学では、クラスの大小を問わず、出席を取るなどというバカなことはしない。
日本の学生がやたらと気にする出席やら単位やらということは、米国の大学では、問題にも話題にもならない。
このあたりに、日米の大学生の学ぶ姿勢の違いがよく出ている。
卒業式典に潜入
米国は、6月が卒業式シーズンだ。
米国の大学の卒業式典は、日本のようにかしこまった儀式ではなく、野外で催す一大パーティみたいなものだ。
見物してみたいと思ったが、入場制限があり、チケットが必要だという。
とは言え、会場を囲って門番がいるわけでもない。簡単に潜入できた。
式典の前には、卒業生の家族や大学関係者が集まるレセプションがある。
下の写真は、その準備の様子。
いざ式典が始まると、カオスになる。
パブリックビューイングで学長らが祝辞を述べるが、誰も聞いていない。
この年は、『ハリー・ポッター』の作者、J. K. ローリングが、ゲストとしてお祝いのスピーチをした。
レッドソックス戦
話はガラリと変わって、ベースボール観戦。
レッドソックスのファンは熱狂的だ。阪神ファンのようなノリがある。
フェンウェイ球場行きの地下鉄車内で、すでにファンが盛り上がっていた。
この日は、運よく、松坂大輔が先発で投げ、岡島秀樹がリリーフで登板し、勝ちゲームだった。
タングルウッド音楽祭
マサチューセッツ州レノックス郡タングルウッド(Tanglewood)の丘陵で、毎年の夏、夜の野外音楽祭が開催される。
かの小澤征爾が指揮を執ったボストン交響楽団が出張演奏する。
音楽祭が行われたのは、8月の末。
タングルウッドの丘には、すでに秋の風が吹いていた。
次回投稿は、「秋・冬」の巻。