泉聲悠韻
明清の文人の小品文を集めました。
『論語』の中から、自分自身への励ましや戒めを含めて、人生訓として覚えておきたい章句を集めました。
中国の古代思想と伝統文化について、現職時に研究テーマとしていた論考や、授業で使った講義ノートなどをアレンジしてみました。
中国語の豆知識、中国語の笑話・謎語などを集めました。
中華圏の映画・ドラマ・サブカルチャーの紹介と感想です。
ユートピアと桃源郷 理想郷を語る時、わたしたちは、しばしば「ユートピア」や「桃源郷」という言葉を使います。 「ユートピア」は、ギリシャ語で「どこにもない場所」という意味で、 16世紀イギリスのトマス・モアの著書に由来します。 一方、「桃源郷」は、中国・東晋の詩人陶淵明の文章「桃花源記」に登場する架空の土地の呼び名です。 漁夫がふと迷い込んだ別世界、俗塵から隔絶された桃源郷は、東洋の理想郷の代名詞です。 「桃花源記」は、漢文教材に採られることも多く、我々日本人
事事留個有餘不盡的意思,便造物不能忌我,鬼神不能損我。 若業必求滿,功必求盈者,不生內變,必召外憂。 事々個の有余不尽の意思を留むれば、便ち造物も我を忌むこと能わず、鬼神も我を損なうこと能わず。 若し業は必ず満を求め、功は必ず盈を求むれば、内変を生ぜざれば、必ず外憂を召かん。
耳中常聞逆耳之言,心中常有拂心之事,纔是進德修行的砥石。 若言言悅耳,事事快心,便把此生埋在鴆毒中矣。 耳中常に耳に逆らうの言を聞き、心中常に心に払るの事有りて、纔かに是れ徳に進み行ないを修むるの砥石なり。 若し言々耳を悦ばし、事々心に快ければ、便ち此の生を把りて鴆毒の中に埋在せん。
不責人小過,不發人陰私,不念人舊惡。 三者可以養德,亦可以遠害。 人の小過を責めず、人の陰私を発かず、人の旧悪を念わず。 三者は以て徳を養うべく、亦た以て害を遠ざくべし。
糞蟲至穢,變為蟬而飲露於秋風。 腐草無光,化為螢而耀采於夏月。 固知潔常自汚出,明每從晦生也。 糞虫は至穢なるも、変じて蝉となりて露を秋風に飲む。 腐草は光無きも、化して蛍と為りて釆を夏月に耀かす。 固に知る、潔は常に汚より出で、明は毎に晦より生ずるを。 *『酉陽雑俎』巻十七に「蝉は、蛣蜣(糞虫)の化する所なり」とある。 *『礼記』「月令」に「腐草、蛍と為る」とある。
『論語』の「殺身成仁」 「仁」は、儒家の説く最高の徳目である。 「仁」とは、人を愛し慈しむことであり、人間らしい親愛の情を言う。 孔子は、為政者はこの「仁」の徳によって政治を執り行うべきと説いた。 『論語』「衛霊公」で、孔子はこう語っている。 ――道に志す人、「仁」の徳を持つ人は、命を惜しんで「仁」を損なうようなことはない。命を捨ててでも「仁」の徳を成し遂げようとするのだ。 この章句に由来する四字熟語「殺身成仁」は、「一身を犠牲にしてでも人間らしい心を守り通す」とい
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ハーバード大学にはプーさんの家がある。 キャンパスの片隅でひっそりと暮らしている。 家には表札がかかっていて、屋根もドアもちゃんと付いている。 玄関アプローチまである。 いつの間にか呼び鈴も。 親切な学生さんが、食べ物(木の実)やお小遣い(コイン)を置いていってくれる。 近所にはリスもたくさん棲んでいる。 リスたちはみなクマのプーさんより大きい。 ネコもいる。 クリスマスがやって来た。
恩宜自淡而濃。 先濃後淡者,人忘其惠。 威宜自嚴而寬。 先寬後嚴者,人怨其酷。 恩は宜しく淡よりして濃なるべし。 濃を先にして淡を後にすれば、人は其の恵を忘る。 威は宜しく厳よりして寛なるべし。 寛を先にして厳を後にすれば、人は其の酷を怨む。
進歩處,便思退歩,庶免觸藩之禍。 着手時,先圖放手,纔脱騎虎之危。 歩を進むる処、便ち歩を退くを思わば、庶んど藩に触るるの禍を免れん。 手を着くる時、先ず手を放つを図らば、纔かに虎に騎るの危きを脱れん。
幸いわたしは、親から、 「勉強しなさい!」 と言われた記憶がない。 小学生の頃、いちおう塾には通っていた。 が、家を出るときバットとグローブを持っていたから、 どこへ行くのかバレバレだったが、母は、 「いってらっしゃい!」 と、気づかないふりをしてくれた。 毎回のことではなかったが、 どれだけ月謝を無駄にしたことだろうか。 それはさておき、「勉強しなさい」という言葉は、 いかにも日本人らしい発想の言葉である。 「勉強」の「勉」は「つとめる」、「強」は「しいる」だから、
「玩物喪志」は、「物を玩びて志を喪う」と訓読する。「珍奇な物に夢中になって志を見失ってしまうこと」を意味する成語である。 「玩物喪志」は、「癖」(へき)の概念と相通ずる。「癖」は、病的に偏った嗜好を言うが、「玩物喪志」がある特定の物に凝集的に現れれば、それは「癖」と言い換えることができる。 「玩物喪志」も「癖」も、元来は貶義の言葉であり、伝統的士大夫の道徳観では戒められてきた悪習であるが、明末に至ると「雅」を求め「真」を尊ぶ人間論の一環として「玩物喪志」や「癖」の言動・心
「玩物喪志」「玩物喪志」は、「物を玩びて志を喪う」と訓読する。 「物」は、珍奇なものを指すが、「無用なもの」「無益なもの」という含意がある。「志」は、進取の気概を言う。儒家的な経世の思想を抱いた壮志、あるいはそのための学問に励む意志を指す。 「玩物喪志」は、「眼前の無益な享楽に熱中するあまり社会的使命や正当な人生の目標を見失うようなこと」「本来為すべきことを為さずつまらぬことにうつつを抜かしていること」という貶義の成語である。 『書経』における「玩物喪志」「玩物喪志」
「傍若無人」は、訓読すれば「傍らに人無きが若し」。原義は「周りに人がいても存在しないかのごとく、ただ自分のことだけに集中しているさま」、派生義は「他人を眼中に置かない高慢な態度」である。 古代の「傍若無人」の言動に一つ特徴的なのは、しばしば「嘯」(しょう)という行為が伴うことである。 「嘯」は、口笛を吹くようにして口をすぼめ長く息を吐いて音を出すこと、あるいはそのようにして詩歌を吟ずることを言う。 一種の音楽形式であり、古くは『詩経』で女性の怨みや悲しみを表す歌唱であっ
「傍若無人」「傍若無人」(ぼうじゃくぶじん)は、訓読すれば「傍らに人無きが若し」である。「傍」は「旁」とも書く。 原義は、「周りに人がいても存在しないかのごとく、ただ自分のことだけに集中しているさま」であり、特にプラスにもマイナスにも含意はない。 ところが、派生義は、「他人を眼中に置かない高慢な態度」であり、横柄に我が物顔に振る舞うというマイナスの語気を含む。 現代中国語ではもっぱら派生義で用いられ、社会的マナーに反する行為や、公衆の面前で行うのは宜しくない行為などを
休與小人仇讐,小人自有對頭。 休向君子諂媚,君子原無私惠。 小人と仇讐することを休めよ。 小人は自ずから対頭有り。 君子に向かって諂媚することを休めよ。 君子は原もと私恵無し。