【チャイニーズファンタジー】中国の怖くない怪異小説 第9話「壁の中の天女」
壁の中の天女
江西の孟竜潭と朱孝廉が都にやって来た時の話である。
二人は、たまたまある寺に足を踏み入れた。伽藍はさほど広くはなく、一人の老僧が投宿していた。客人が入って来たのを見ると、衣を整えて出迎え、寺院の中を案内してくれた。
仏殿には、宝誌(梁の高僧)の塑像が置かれていた。その両側には、精細な壁画が描かれていて、画中の人物はまるで生きているかのようだった。
東の壁には散花天女たちが描かれていた。その中におさげの少女がいて、花を指でつまんで微笑んでいる。桜色の唇はいまにもほころびそうで、眼差しは四方に流れるかのようだった。
朱は、久しい間、じっと壁画の少女を見つめていた。知らぬ間に、すっかり心を奪われ、頭がぼうっとなって恍惚とした気分になってきた。
すると忽ち身体がふわりと宙に浮いて、雲に乗ったかのような心地になり、ふと気がつけば、壁の中に入っていた。
そこには御殿や楼閣が建ち並び、この世のものとは思われない。一人の老僧が壇上で説法をしており、袈裟を着た僧侶たちがぐるりと取り囲んで聞いていた。
朱もその中に混じって説法を聞いていると、誰かに裾を引かれている気配がした。振り返ると、あのおさげの少女だった。笑いながら去っていくので、朱はそのあとについていった。
少女は回廊の角を曲がって、小さな部屋に入っていった。朱がどうしようかと躊躇していると、少女はくるりと振り向いて、手に持った花を揺らしながら、部屋の中へ招く仕草をした。
急いで部屋に入ると、中には他に誰もいない。朱がいきなりぎゅっと少女を抱きしめると、少女は恥じらうだけで拒もうとしない。朱はそのまま少女と情を交わした。
事が済むと、少女は部屋の戸を閉じて去っていった。去り際に、「どうか咳をしないでくださいね」とお願いをした。
夜になると、少女がまたやってきた。こうして二日が過ぎた。
少女の仲間たちが二人の逢い引きに感づいて、部屋に押しかけてきた。
少女をからかって言った。「お腹の赤ちゃんがもうこんなに大きくなったというのに、まだおさげのままでいるつもり?」
仲間たちは簪や耳飾りを持ってきて、寄ってたかって髷を結い上げた。
一人が、「お姉さま方、いつまでもお邪魔したら嫌がられてしまいますよ」と言うと、皆は笑いながら部屋を出ていった。
少女を見ると、髷は雲のように高く結い上げられ、鳳凰の髪飾りが頬の前で揺れている。おさげの時とは比べものにならぬほどなまめかしい。
あたりに人影はなく、朱が少女を抱き寄せ、男女の事に及ぶと、蘭麝の香りがむせるほどであった。
悦楽に耽っていたところ、突然カツカツと靴の音が床に響き、ジャラジャラと鎖が引きずられる音がした。部屋の外はガヤガヤと騒がしくなった。
少女は驚いて跳び起き、二人で外を覗くと、黄金の鎧を身につけ、真っ黒い顔をした男が、鎖と金槌を手にし、多くの女たちに囲まれていた。
「全員揃ったか?」と男が言った。「下界の人間を匿っている者がいたら、すぐに名乗り出よ。さもないとあとが怖いぞ」
皆は声を揃えて「おりません」と答える。男は鷹のように鋭い目つきで辺りをぐるりと見回した。
少女は怖気づき、血の気を失っていた。あたふたしながら、「早く寝台の下に隠れてください」と朱に告げると、壁の小さな扉を開けて逃げていった。
朱は、寝台の下に伏せて息を殺した。俄に靴の音が部屋の中に入ってきて、また出ていった。しばらくして騒ぎがようやく収まったようで、ほっと胸を撫で下ろしたが、外ではまだ女たちがあれこれ話しながら往き来している。
じっと伏せていると、耳が鳴り目がクラクラして、どうにも我慢できなくなった。少女がいつ戻ってくるかと耳を澄ますうちに、とうとう自分がどこにいるのかも分からなくなってしまった。
この時、孟竜潭は本堂にいた。いつの間にか朱がいなくなったので、不思議に思って老僧に尋ねた。老僧は笑って、「説法を聞きに行かれたのじゃよ」と言う。「どこへ?」と尋ねると、「遠くはない」と答える。
しばらくして、老僧は指先でチョンチョンと壁を弾いて呼びかけた。
「朱さん、随分長らくお遊びですね。そろそろお帰りになりませんか」
すると、壁画の中に朱の姿が現れた。耳を傾けてたたずんでいたが、何かを聞き取れたような素振りをした。老僧が「お連れさまがお待ちかねですぞ」と声をかけると、ふわりふわりと壁の中から舞い降りてきた。
朱は茫然自失として、目は見開いたまま、足はフラフラで、今にも倒れそうだった。
孟はびっくり仰天して、いったい何があったのかと朱に尋ねた。朱が言うには、寝台の下に伏せていたら、雷のようにドーンドーンと戸を叩く音がしたので、部屋を出て様子をうかがっていたとのことだった。
そこで、花を手にしていた壁画の少女を見ると、こんもりとした髷を結っていて、もはやおさげ髪ではなくなっている。
朱は驚いて、老僧に向かって恭しく拝礼をし、どういうわけなのか尋ねた。僧は笑いながら答えた。「幻は人が作り出すもの。拙僧ごときに何がわかりましょうか」
朱は悶々として意気消沈し、孟は驚嘆してうろたえた。二人は気を取り直して、石段を下りて去って行った。
【解説】
この物語は、清・蒲松齢の怪異小説集『聊斎志異』に収められているもので、原題を「画壁」という。
朱孝廉と壁の中の天女との邂逅を語ったもので、仏教を背景としたファンタジーである。
孝廉は、郷試(科挙の地方試験)の及第者の通称である。
壁の中の少女は、「散花天女」であった。散花天女は、維摩詰が説法をする時に現れて、説法を聞いている者に向かって花びらを撒く。仏道に精進している者の身体には花びらはくっつかず、そうでない者の身体にはくっついて落ちないという。
少女は、初めはおさげだった。これは、未婚(すなわち処女)であることを示す。朱と情を交わした後に髷を結うが、これは既婚であることを示す。
男女が出会って、その場でいきなり情事に及ぶのは甚だ唐突だが、これは、中国の古典小説ではしばしば見られる展開である。
この物語には、作者蒲松齢の解説が付されていて、次のように言う。
――幻は人が作り出すものだ。人に淫らな心があれば、猥褻な境地が生じ、人に猥褻な心があれば、恐ろしい境地が生じる。菩薩は衆生に仏道を悟らせるため、千変万化の幻を作り出してみせるが、実は、これらはみな人の心が生み出しているものなのだ。
作者は、この物語が「幻は人に由りて生ず」という道理を説くためのものであると語っている。怪異小説ではあっても、建前として、教訓的意義があることを示したものである。
なお、この物語は、小説の原題と同じ「画壁」というタイトルで映画化されている。『聊斎志異』所収の小説は、これまで幾つか映画化されているが、この「画壁」も含めて、原作とはまったく別物のストーリーになっている。