中国古典インターネット講義【第13回】孟子・荀子~人の性は「善」か、「悪」か
孟子
孔子の没後100 年ほど経った戦国時代、魯の隣国である鄒の国に孟子が生まれました。
孟子は、名は軻、孔子の儒家思想を継承発展させました。
孔子に次ぐ聖人という意味で「亜聖」と呼ばれています。また、孔子と並列して、儒家の教えを「孔孟の教え」とも言います。
青年孟子は、多くの学者と切磋琢磨して学問を身につけました。当時、斉の威王・宣王は、都の臨淄(山東省淄博)の稷門(西門)の外に集団居住地を造営し、そこに天下の学者たちを集めて、自由に学術論争をする場を設けました。これを「稷下の学」と呼んでいます。
若き頃の孟子は、ここで、かの理路整然とした弁舌を学びました。
のち、孟子は、諸国を遊説して回り、他学派と対抗しながら、「仁義」に基づく王道政治を説きました。
晩年は故国へ帰り、門人の万章・公孫丑らと共に自説を書物に著し、孔子の精神を後世に伝えることに専念しました。
孟子の言説は、『孟子』7篇に集録されています。
編者については、孟子自身とする説、門人との共編とする説、孟子の没後に門人が編纂したとする説があります。
後漢の趙岐が注を加え、各篇を上・下に分けて、計14篇としています。
『孟子』は、南宋の朱子(朱熹)が「四書」の一つとして以来、儒家の経典として重視されるようになりました。
「四書」は、儒家の最も重要な経典である『大学』『中庸』『論語』『孟子』を指します。
『孟子』の文章は、均整がとれていて、簡潔で力強いのが特色です。
問答体の議論文は、比喩を駆使し、巧みなレトリックが披露されています。
孔子の思想は、『論語』という弟子との言行録の形で伝わったため、思想が体系的なまとまりを持たず、個々の概念規定も明確にされないままになっていました。
孟子は、そのように雑然とした形で残された孔子の教えを一つの思想体系としてまとめました。
「仁義」
「仁」について、孔子の教えでは、情緒性と規範性が渾然一体の状態でしたが、孟子はこれを「仁」と「義」に分化しました。
「義」は、物事の宜しきを得、正しい筋道にかなっていることを言います。孟子は、こう明快に述べています。
ここでは、内面的・情緒的な美徳である「仁」と、外面的・規範的な道徳である「義」を並べて説いています。
そして、「仁」は「義」の助けを借りて、はじめて適切に実践することができるとしました。
以下は、孟子が梁の恵王に対して「仁義」を説いた場面です。
当時は、戦国時代。梁の恵王は、斉・楚・秦など周囲の大国に苦しめられていました。
劣勢を挽回するために礼を尽くして遊説家たちを招き、富国強兵策を模索していました。
自国の利益になる具体的な方策を期待していた恵王に対して、孟子は「仁義あるのみ」と突っぱねます。
当時の遊説家の多くが、諸侯の需要に合わせて「利」を説いていましたが、
孟子は、その「利」をことさら強く排斥することによって、その対極に位置する「仁義」を際立たせようとしました。
「仁義」による政治理念は、孔子の徳治政策をそのまま継承したものです。
元来は人間の美徳・道徳である「仁義」を政治の場に持ち込み、理想主義的な政治論を展開させています。
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