![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/148615246/rectangle_large_type_2_9c7b345cdf52dd533e29076ca17701f4.png?width=1200)
風雅な格言集『幽夢影』⑰~「恥の一字は君子を治むる所以なり・・・」
![](https://assets.st-note.com/img/1722003427466-AVO3h1mH1m.png?width=1200)
恥の一字は、君子を治むる所以なり。
痛の一字は、小人を治むる所以なり。
(清・張潮『幽夢影』より)
――「恥」という言葉は、立派な人間を律するためのものである。
「痛」という言葉は、つまらない人間を律するためのものである。
「恥」と「面子」
「君子」(立派な人間)と「小人」(つまらない人間)は、ある行動をするかしないかの判断を下す基準が異なっています。
「君子」は、その行動をすることによって恥ずかしい思いをするようであれば、行動を控えます。一方、「小人」は、その行動をすることによって痛い目に遭うようであれば、行動を控えます。
「恥」の概念は古くからあり、『論語』「為政」篇で孔子が次のように語っています。
之を導くに政を以てし、之を斉うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。之を導くに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥ずること有りて且つ格る。
――政策や刑罰を以て民を治めれば、民は抜け穴を見つけて悪い事をしても恥じることがない。道徳と礼儀を以て民を治めれば、民は悪い事をしたら羞恥心を抱くので自ずから善良になる。
「恥」には二面性があります。
一つは、自分自身を省みて、道義や規律に反していることをした時に感じる羞恥心、つまり「自分で自分を恥じること」です。
もう一つは、他者から否定的な評価(非難、嘲笑など)を受けた時に感じる恥辱感、つまり「人前で恥をかくこと」です。
中国人は、儒家的な伝統の上では前者を重んじます。上記の『論語』「為政」篇の一節などはその良い例です。
ところが、実際の人々の生活においては、むしろ後者の方が強く働くことが多いようです。
これは、「恥」という概念が「面子」(メンツ)と密接に結びついているからでしょう。
「面子」は、中国人にとって何よりも大切なもので、あらゆる行動の物差しとなっています。
「面子」を自ら失ってしまうこと、あるいは人に「面子」をつぶされることが、中国人にとって最も恥辱を覚えることだとよく言われます。
このことは、個人においても、家族においても、また国家においても言えることです。
「君子」と「小人」という言い方も古くからあり、やはり『論語』に両者を並べて語った例が多く見られます。
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。(「子路」篇)
――立派な人間は、人と調和するけれども、付和雷同はしない。
つまらない人間は、付和雷同するだけで、人と調和することがない。
君子は義に喩り、小人は利に喩る。(「里仁」篇)
――立派な人間は、道義に敏感である。
つまらない人間は、利益に敏感である。
そうすると、この『幽夢影』の
恥の一字は君子を治むる所以なり、痛の一字は小人を治むる所以なり。
という一節は、一見、そのまま『論語』の中に突っ込んでしまっても違和感がないようにも見えます。
しかし、留意すべきは、この文章は江南の粋な有閑文人である張潮が書いたものだということです。
張潮は、かしこまって杓子定規なお説教をするような堅物ではありません。
そうした目で見ると、この一節も真面目な教訓と言うより、どことなく諧謔的な語気を感じさせ、『論語』のパロディーのようにさえ見えます。
そもそも「痛」という文字は、経書の類にはほとんど出てこない文字です。
『幽夢影』の一節では、精神的にではなく、肉体的に「痛い!」という意味で、棒や杖で叩く刑罰・体罰を連想させます。
ですから、この一文は、
「世の中、ひっぱたいてやらないと分からない困った輩がいるもんだ」
というくらいの軽い口調で語られています。
![](https://assets.st-note.com/img/1722003868969-9T3Pj4izFH.png?width=1200)
恥之一字、所以治君子。
痛之一字、所以治小人。