見出し画像

日本人は何故元々感情コントロールが優れていたのか心理師が解説

はじめに


私は元々理学療法士であり、今は公認心理師として就労移行支援事業所で多くの利用者様の心理面・身体面・社会面(就職活動)の支援に携わっている。

つくづく思うのが「健康」ありきの「仕事」という事である。
そのため仕事で健康面に大きな被害が被るのであれば
そんな仕事は辞めてしまえ!」とさえ思っている。

本来、「仕事」とは自己実現なのである。
「仕事」とは「自分が何者であるかという意識の自覚」に大きく寄与
する。そのため、仕事がない状態は苦しいのである。

ましてや、社会・集団を成り立たせる本質は「give-and-take」である。
存在そのものが「give」と意味付けできなくもないが、社会的な疎外感は否めないのである。

疎外感が長期的に続くと
「自分が何者であるか?」というモラトリアムに陥りやすくなる。


しかし、「自分が何者であるか?」と問い続け試行錯誤した中でしか「私」というものは見つからないのも事実である。


適当に仕事を探して就職し、特に人生の大きな課題もなく生きている人にはたどり着けない「境地」というものがある様に思える。

そのため、仕事がなく悩んでいる人ほど
今の自分自身が本当にやりたかった事を模索して飛躍するチャンス」だと私は本気で思っている。


これは、お世辞でもなんでもなく事実である。

それでは、今日の本題に入る。
逆境の中で求められるのは「行動する」という事である。
そして、「行動」の土台は「感情」である。


アントニオ・ダマシオの言葉に
我々は判断を下す時すべて感情を通して行っている。
感情抜きの判断・思考などというものは存在しえない

があるがその通りである。



「感情」は時として我々の成長を阻む事がある。
例えば「自己憐憫」である。


意味は、「自分はかわいそうだと思い他者に同情を誘う心理」であるが
無意識に可哀そうな自分になった原因を他者に追求するのである。
結果、一生悩み続けてしまいそこには「成長」が介在しないのである。
(もちろん建設的な行動も認められない)


「気付き」がない限り一生苦しんでもらうしかないのである。


ある先生によると「自己憐憫は成長を止める。
人間が持つもっとも醜い感情
」と言わしめている。(そこまで言うか・・)


このように、感情は良くも悪くも「行動を動機付ける強力な推進力」を有しているのは疑いのない事実である。


よって、
感情をコントロールできる事=自分の人生を生きる(自己実現)
と言ってもおかしくはないだろう。

日本人は感情のコントロール力が優れていた


では、本題に入る。
感情をコントロールするというのは永遠のテーマである。
感情は天候と同じであり自分の意志でコントロールできるものではない事は重々承知である。


それでも、感情に支配されて生きづらさを抱えているのであれば
できる限り向き合っていく手段を学び実践していかなけばならないと思う。


生き方」を「工夫」しなければならない。
それは、無意識にすべての人が行っている事である。



その「工夫」の手段を模索する事が当事者にも臨床家
にも求められるのではないだろうか?


私は、手段を模索する中で「体を律し心を制する」日本文化が利用者様や
クライエントまたは自分自身に応用できるのではないかと考えた。

まずは以下の写真を見て欲しい。

現在でも十分に通じるイケメンである。(そこ?)
体の軸が定まっており何か存在感を感じられずにはいられない・・。
美しい佇まいである。着物の影響もある事ながら軸が整っている。
下駄をはいているため不安定であり、強靭な足腰が求められるのではないか・・
日本人は畳の上で生活する文化であった。そして正座する文化であった。
私も剣道をしていたため正座に慣れてしまっているが
現在の人は5分の正座で足がしびれ崩す傾向がある。

上記の写真は「身体感覚を取り戻す~腰ハラ文化の再生~,斎藤孝」より引用したものである。ものすごく印象に残ったため共有させて頂いた。

ちなみに正座についても以下に述べさせて頂く。

正座はそもそも身体にとって自然な姿勢ではないのである。
決して普遍的な座法ではなく日本に特徴的な座法なのである。

この様な背景には強力な「躾」が関連している。
正座は「居住まいを正す」身体感覚をむすびついているのである。
自分自身の心身を律する構えであると同時に他者に対する礼儀正しさを表現する意味ももっている。

心身を律する構えの躾の一環であり当時の社会的な関係を安定させる役割を担っていたのである。

身体感覚を取り戻す~腰ハラ文化の再生~,斎藤孝一部改変

斎藤孝先生は書籍で日本の伝統的な身体文化を
腰ハラ文化>と呼んでる。


肚のできている人は、仕事を任せられる人」という「からだ言葉」があるが、どこか腑に落とせる部分があるではないだろうか?


現在の日本では体に何が起こっているのかというと<中心感覚>が失われていると先生はおっしゃっている。


(中心感覚とは「体軸」または「センター」と呼ばれるものである。
 優秀なスポーツ選手は「センター」が発達していると言われている)


ここで皆さんは、以下の疑問を抱くであろう。
(皆さんというより「私が」だが・・・(笑))


ハラや体の中心を意識したところで本当にメンタルが変わるのか?
根拠を示してくださいよ!

以下が私なり調べてたどり着いた根拠である。

根拠①(海外の偉人の評価)


まずは、日本人を客観的に評価した海外の偉人の言葉を引用する。

フランシスコ・ザビエル


ルイス・フロイス
エルフィン・フォン・ベルツ

                    (呼吸入門,斎藤孝より引用)

また、肚‐人間の重心,デュルクハイムより以下に引用する。

私は大勢の人が集まったパーティの事を覚えている。
招かれた客はヨーロッパ人も日本人も食事が進んで紅茶を手にしたり煙草をゆらしたりしながら輪になっていた。

その時日頃の私の関心事を知っている1人の日本人が私のところにやってきて言った。

いいですか?ここに居合わすヨーロッパ人はもし後ろから押されると転ぶ姿勢をしてしまいます。日本人は押してもバランスを崩すひとはいないでしょう

この安定性はどうしたら生まれるのであろうか?重心は上に向かって移らず中心はへそに保たれている。腹を引っ込めず自由にし軽く張って押し出す。
肩の部分は張らずに力を緩めるが状態はしっかりしておく。

自分自身を垂直に保ち枝分かれする幹の姿なのである。
人が太っていようと痩せていようと関係ない。

肚‐人間の重心,デュルクハイムより引用

また、デュルクハイムは日本人の姿勢を観察する中で、
片方のみに重心が乗っている事はなく常に
センターが整っている
事を発見した。

センターが整うとは私なりに定義すると
骨の上に骨が位置し、筋肉による固定が限りなく0に近い状態
の事を指すのではないかと考える。

要は「真っすぐ立てており脱力できている状態」と言い換えても良い。


ちなみに「弛緩」と「脱力」は似て非なるものである。
脱力とは力が抜けているが故に、すぐに行動に移し適応する事に特化した
意味合いで用いられる。実用性に優れるのである。


※脱力は微妙に筋肉が収縮している。


一方「弛緩」は、「実用的でないもの」ととらえて頂ければ良い。
自分の意志ではなく睡眠中・脊髄損傷・脳梗塞等々によって用いられる概念として二つの用語を私は区別している。


※脊損完全麻痺に対して筋肉が「脱力」しているとはいわない。
 支える力が全くない状態を「弛緩」


話を基に戻す。
センターとは中心感覚であるが、中心感覚が形成されると何故心が安定するのだろうか?


私の仮説であるが、筋肉の収縮がかぎりなく0に近い状態の場合
心の在り方も限りなくニュートラルになる
のではないかと考える。
※呼吸も楽になる


心が悟る」状態(無の境地)に近づくのではないかと考える。
※「悟る」とは迷いの世界を超え心理を体得する事。


「いやいやそれは仮説でしょ?」
「根拠も示してくださいよ?」

と思う方々もいらっしゃると思ったので科学的根拠も私の知っている範囲でお伝えする事にする。


根拠②(現在私が分かっている事)

これまでの事を端的に述べるなら「日本人は姿勢が良かった」という事になる。「だから感情コントロールも上手く行えた」である。


つまり「体を律し心を制する」民族なのであった。

「いやいや、日本文化は精神主義だろう?」
という意見もあるかもしれない。


その意見に対して斎藤孝先生は以下の様に述べている


日本文化は精神主義であると良く言われる。しかし日本における精神性の多くはその基盤として多くの身体技術を持っている。身体の構えを整える事によって心の在り方を整えていくというのがむしろ日本文化の主流である。

身体性と精神性は2文法で考えられるものではないがあえて分けるとしたら、日本文化は「身体性」が重視された文化である。

身体感覚を取り戻す~腰ハラ文化の再生~,斎藤孝

では、「体を律する」とは具体的にどのような事なのか?


ハラ(下丹田)」「中心感覚(センター)」「呼吸」の3つの身体感覚を「無意識に律する」文化であったと私は解釈する。


まずは「ハラ」である。
無意識に「ハラ」を意識する背景には日本独特の文化が関連している。
袴や着物には「帯」が存在する。
また、「刀」を腰に携える事からも「ハラ」に意識せざる得なかったのである。

※西洋文化は首にネクタイを締める事が興味深い

また服装の影響から、ナンバ歩きにならざる得なかったのである。
刀や帯そして胴着がはだけない様に・・・
ナンバ歩きについての詳細は以下を参照して欲しい。

「ナンバ」とは、日本における歌舞伎の動作である六方(ろっぽう)にみられる、同じ側の手と足を動かして歩く動作のことである。

ナンバを基本とする身体の使い方は、伝統武術や陸上競技などに一定程度応用することが可能であり、スポーツ科学の観点からも研究が行われている。ナンバに類似したものにテレマークスキーの歩きがある

Wikipediaより引用

ナンバ歩きを実際行ってみたが、相当「ハラ」を意識しなければ難しい事が私自身が実践して分かったのである。


また、日本人は長距離歩行を行う文化であり明治・大正期と現在を比較すればその差は歴然であろう。


大正の自由教育に携わっていた、木下竹次という人物がいたが、彼は「長い距離を歩くこと」を教育の重要な柱の一つに据えていた程であった。
(「寒中歩行訓練」の行事として68㎞を年一回実施していた)
もちろん途中リタイアが可能なように段取りもなされていた。

木下竹次は以下のように述べている。

歩行術の方法は種々あるがこれは丹田の修練法と考えて工夫すれば間違いない。歩行練習は距離の大小よりも雑念がなくなって歩行に専念し、歩行になりきれるかによって成否を判断する
歩行練習はたくさんの教訓を体験できるので面白い。

歩き始めの最初の決心が仕事全体に影響する事、継続練習の必要なことのごとき「苦」も無く体験できる。また、度々の行詰まりを解決するのに創作を要する事も分かるが、歩行距離が一定度に達すると一尺の距離を伸ばすのも困難である。ややもすると距離が縮小する。

ここに緊張弛緩法を修練すると一段の進歩があるような事が分かる。

学習原論,木下竹次より一部引用・改変

最後が分かりにくいため端的に私なりに表現すると「歩く」事で「自分をコントロールする力が養われる事」を説いているのである。


理屈的に歩く事が何故良いのかについて問われると、一定リズムの
反復に伴うセロトニン神経が活性化
しやすいからであろう。


規則正しい呼吸や歩行は、脳内神経という
観点からも精神の安定をもたらしやすいからである。


そして、長い距離を歩く事で「地に足がついている感覚」に「技化」されやすくなると考えられる。

やや脱線したが以上の事からも、日本人は「ハラ」を無意識に意識する文化であった事が言えるし、デュルクハイムの日本留学の体験談からも明らかであろう。


ちなみに、心身相関を明らかにするための材料として「からだ言葉」がある。

からだ言葉」とは何なのか?

それは「体のある部分を使って、ある事を表現する事」である。


例えば怒りの表現をする場合は「腹が立った」と表現する
重責を果たした時か「肩の荷が下りる」と表現したり、
悪い事をしたときに「世間に顔向けできない
肩身が狭い」等の表現を行うなど枚挙にいとまがないのである。

※日本語で6000語あると言われている。


「からだ言葉」は真実か否かについて調べた研究がある。

先ほど述べた「地に足をつける」という言葉はは「浮足が立つ」と反対語で「落ち着く」とか「現実にしっかり向き合っていく」などの意味でつかわれることが多い。

増田・菅村(2014)は
①椅子に座って床に着地している被験者(着群)
②椅子に座って宙ぶらりんになる被験者(付着群)
で身体感覚や気分の違いがどう変化するか検討した。

<結果>
着群は快・リラックス感・気分の落ち着き・自信が負着群よりも高いという結果が得られた。

また足の裏の意識が高い低いの群分けを行い分析したところ
着群と同様の結果が得られたのである。

以上の事からも日常しようしている
体言葉の意味はおおよそあっているのでないかと推察できる。

新版 身体心理学(身体行動から心へのパラダイム),山口創,春樹豊より引用


バイオエナジティックスと呼ばれる精神分析療法に基づくボディワークを開発したローエンという人物がいるが、鬱の患者に現実と向き合う事を教えるために「グラウンディング」と呼ばれる足を踏みしめる訓練を施す手段を提唱している。この方法は実験結果からも理にかなった方法である。

日本人は「地に足をつける感覚」が卓越していたが故に
「気分の落ち着き」「安心感」が育まれてきたのかもしれない。
(要するに感情コントロール)

かなり脱線したが、話を基に戻す。
次に「中心感覚(センター)」である。
中心感覚(センター)」について改めて定義させて頂くと
床から腰‐胸‐頭にかけて一本の軸が貫いている身体意識」とさせて頂く。

センターの意識
高岡先生生いわくセンターの意識によって、呼吸が行いやすくなり小さな事に気にならなくなる。
中心がぶれない感じ等々。イチローやタイガーウッズ等が発達している。
引用:身体意識を整える,高岡英夫

日本人は「肚が据わり、センターが整っていた」
つまり良い姿勢だったのである。
(着物や帯の影響、礼儀作法を重んじる文化であった事から)


また、センターが整うと深い呼吸(腹式呼吸)が可能になる。
体を歪ませて呼吸する場合と、センターを整えて呼吸した場合では
呼吸の行いやすさは一目瞭然である。

※記事を読まれている方は是非試してほしい

つまり日本人は「良い姿勢であり、肚が据わり、深い呼吸も行えていた」という恐るべき民族(健康面で)なのである。


では良い姿勢だと本当に感情をコントロールできるのか・・?
以下の文献を参照にして欲しい。

参加者に「プライド」もしくは「落胆」を喚起させる
言葉を紙にたくさん書いてもらう実験を行いました。
前者は「良い姿勢」
後者は「悪い姿勢」で書くことがわかりました。
     ⇒人は自分の感情と一致した姿勢をとる事が示唆

オランダのアムステル大学,ウステルウィク・スーザン

①ストレスを受けても背筋と頭を立てているグループ
②ストレスを受けて猫背で頭を下げるグループ
結果として①のグループは自尊感情が高く保たれていた。
一方②のグループは受身的でだるいといったネガティブな感情が生まれた。
     ⇒姿勢の在り方で受け取り方に差異が生じる事が示唆

オークランド大学のスウェサ・ネアーたちの研究グループ

また、心を安定させる作用をもつセロトニンは抗重力筋と深い関係があるとされています。マウスを用いた動物実験では抗重力筋に関わる脳の部位電気刺激すると脳内神経が発火しました。つまり、姿勢を整えるという事は脳内セロトニンの発火が促され抑うつ気分が低下して心の安定が図る事ができるのである。
                (体の無意識の治癒力,山口創より引用)


そして、上記の仕組みが日本人の独特の文化によって育まれたおかげで
感情コントロールが行えていたのではないかと考える。

ちなみに、頭(上丹田)胸(中丹田)腹(下丹田)でそれぞれ
「生ずる感覚」「作用や効果」が異なるのである。

それらは以下に参照して欲しい。(イラストはイメージである)


①頭を意識する(論理性・分析や解釈)
何かを分析する際に無意識に頭をまえに突き出し手を顎に置き考えてしまう。思い出す時に眼球を左斜め上に移動させるがこれも無意識に頭に意識が向いているのである
②胸を意識する(感情的・他者を動機付ける・元気よさ)
楽しくお話する時や、やる気が高まった時に胸を意識するのである。スーパーマンなどの姿勢がそうである。海外の人は胸に意識が向くことが多い。ジェスチャー等がそうであろう。
③腹を意識する(存在感・安定・自然体)
命を輝かせる起点何かを思い切って決断する際や、安心感・安定感等の意味合いをもつ。
例えば力士は下丹田は強烈に発達しておりどこか安定しているのだ。武道家等の姿勢がまさにそうである。日本人は肚いわゆる下丹田が発達しているといわれている。
また、下丹田を活性化させるような風習や習わしや環境であったとされている。


まとめると、姿勢や意識する身体部位によってメンタルは変容していくのである。日本人は「体を律し心を制する」文化によって感情コントロール力が優れていた。

心身相関を証明する研究は上記で述べた通りである。
体を律する事で心がコントロールできる事はある程度、科学的に分かっているのである。

※臨床経験からも明らかである。

心理支援にどのように生かせば良いのか??

私はマインドフルネスを利用者様にお伝えしているが
開始前に上記に述べた内容を講義するのである。


元々マインドフルネスは「禅」の考えから取り入れられた背景がある事。
そして我々は日本人である事からも、「先人たちの知恵」を使わない手はないのである。

利用者様からのお声で
「メンタルを安定させたい」
「ぶれない心の軸をもちたい」
「コミュニケーション力を高めたい」

というお悩みがあれば、「体を律する」事からまずは始めて頂く。
(もちろん文脈にもよるが)

具体的には、「マインドフルネスイーティング」を行って頂くのだ。
※今この瞬間を大切にしながら食事を行う事。

以下が食事を行う際のポイントである。

絶対に携帯を見ながら行なわない。
味わってよく噛んでいるだろうか?
「頂きます」「ごちそう様」を言えているだろうか?
姿勢はどうか?
箸の持ち方は正しいか?
作ってくれた人に感謝できているだろうか?
茶碗の持ち方は正しいか?
残さず食べきれているか?

                    等々

この様に姿勢と心の在り方から自分自身を律する事で
自信」と「感謝」が生まれメンタルヘルスにも大いに寄与するのである。

美しい所作を意識した食事を皆さんは一度は行ってみてはいかがだろうか?

そもそも何故、まずは食事を意識するのか?
それは、「落語」の前座修行からヒントを得ている。



芸人から落語家へとなった月亭方正さんをご存知だろうか。
彼の現在の「姿勢」「佇まい」「声の抑揚」「存在感」などが昔と比べ物にならないくらい「充実」しているのだ。

彼はもはや「ヘタレ」では決してない。
何か、強い「芯」と「ハラ」の充実感を感じるのだ。

彼だけではなく、落語家に共通して「センター」と「ハラ」が充実しており姿勢も良く言葉にできない「安心感」の様な物を感じるのである。

月亭方正さんは落語を始めた際に生活がガラリと変化したそうだ。
以下が私の作成したスライドの文章である。

落語の前座はまず、字をきれいに書くご飯粒を残さない箸をしっかりもつ姿勢を正す靴をそろえる規則や礼儀等々を徹底するそうだ。
落語を始めてから、月亭方正さんはお金を使う事が少なくなったそうだ。

姿勢等も見ているとその差は一目瞭然である。

前座では、基本的に師匠により従うのだが、厳しい修行の後に距離感を掴むのである。
空気を読む力を無意識的に感じられるように訓練されるのだ。
厳しい社会もしくは自分にうちかつための修行である。

この様にして落語家は芸の土台となる最も大切な「体」と「心」を鍛えるのだ。

何か堂々たる風格が感じられる・・
何故だろうか・・


一つ一つの動き(所作)に注意を払う事。自分を律する事。
これこそが、感情コントロールを可能にした要因だと確信している。

西洋はともかく、東洋の特に日本人は体からメンタルの安定化を図る手段の方が理にかなっている事が分かるであろう。

日本の伝統芸能はまさに「体を律し心を制する」ことを実践しているのである。


「規範だらけだとしんどくなるではないか?」と批判があるかもしれませんが私からすれば「甘えるな!!」である。



「全く制約や抵抗のない状態の自由」は宗教支配されていた時代でなら分からなくもないが今は「令和」である。


本来自由とは、適切な制約や抵抗があった方がより充実する」のである。
それを、実践してきたのが日本文化であり再び古き良き文化を新しい形で取り戻すそんな局面に時代が到来している様な気がしてならないのである。


日本文化をヒントとした、心理療法が今後台頭していくであろう。
※もうすでに再評価されているが・・



ここまで話してもまだ科学的に納得したい人もいるであろう。
噛むことがメンタルに影響を及ぼす文献も記載する。


是非まずは、食事から心と体を整えて欲しい。

縦軸:ストレス物質(左:コルチゾール、右:アドレナリン)の血中レベル
横軸:咬んだ時間

ストレスを受けたラットの血中コルチゾールとアドレナリンのレベルは上昇している。両者の上昇は咬む時間に依存して減少していく。

ラットはテープで手足を縛られ実験台に固定されることによってストレスを受けた。その際にラットの口に棒をくわえさせると、咬む時間に応じて胃潰瘍面積が減少していた。

C. Sato et al. (2010). Bruxism affects stress responses in stressed rats. Clin Oral Invest, 14, 153-160.

最後に

過去最大の文章量でありここまで来るのに3日はかかってしまった。
(文字数は初めて10000を超えた)

情報が氾濫する今の時代、絶対的な指標となるものが不明確な時代だからこそ自分の意志を強く保ち、時代の流れに立ち向かう力が個々に求められているのである。

時代の流れに立ち向かうために様々な著名人がそれぞれの異なる方法で情報を発信しているが、今こそ「本質」に立ち返るべきではないだろうか?

それでは、自分自身を強く保つための「本質」とは何なのだろうか?

それは、「自然と思われる事を実践する事」ではないだろうか?


仕事の仲間と目があえばまずは「挨拶する事
礼に始まり礼に終わる事
感謝して食事をする事
遅刻する場合は上司に連絡する事
食事の最中は携帯をいじらない事
雨が降れば洗濯物を入れる
深い呼吸ができる事
等々である。

自然と思われる事を実践できる価値
を我々は再認識しなければならない。


それがどれだけ素晴らしい事か、、その事をリハビリテーションや就労移行支援事業所で日々学ばせて頂いている。


こんな話がある。
潜水艦に閉じ込められたアメリカの海兵たちがいた。


彼らは、日本の領土近海で孤立してしまったのだ。
日本人は律儀なため、何度も定期的に爆撃するため
潜水艦は海底で待機せざる得ない状況なのである。


いつ爆弾がたまたま命中して死ぬか分からない・・
暗闇の極限状態の中でアメリカ海兵たちは祈るのであった。


神よ、もし生きてもう一度あの青空を見させて頂けるのであれば私は今後人生に対し一切不平不満を言いません

人伝いの物語であったためその後の顛末
(始まりから終わりまでの事情)は分からない。


この物語は「自然と思われる事を実践できる価値」を我々に教えてくれているのではないだろうか??


最後に「甘ったるい言葉」で我々の欠乏感を刺激する言葉が乱立する昨今であるがそんなものに振り回されてはいけない。

「幸せ」「不幸せ」・「できる」「できない」・「勝ち組」「負け組」等々の二元論に振り回されてはいけないのである。


二元論を超えた「自然体(無)の境地」
評価をせず、唯、今この瞬間に注意を向ける姿勢
時間の流れや生命の営みに感動できる感性

これこそが、日本文化が大切にしてきた
教養(創造的活力・心の豊かさ)」というものであり
本当の意味で「良き人生」を生きるための本質ではないだろうか?


私も今だ修行中であり多くの人と伴走して行きたいと思う。
日本人として生まれたことを感謝しながら・・・


長文であったがここまでご拝読して頂き本当にありがとうございました。










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?