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悦贔屓蝦夷押領③~実は田沼時代を描く蔦屋重三郎出版の黄表紙

 江戸の町には全国から物産が集まり、北海道の昆布こぶ数の子かずのこも売られていたことだろう。田沼意次たぬまおきつぐは、そういう商業や貿易をすすめていた。
 田沼意次が失脚しっきゃくし、寛政の改革かんせいのかいかくが始まった時代に描かれた、「悦贔屓蝦夷押領よろこんぶひいきのえぞおし恋川春町こいかわはるまち(1744~1789)作、北尾政美きたおまさよし(1764~1824)画、天明八年1788蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろう刊の上中下三巻。
 その現代語訳を三回に分けておくる最終回。

 


下巻
十三

 そもそも蝦夷えぞ国は、五穀ごこくのみならず、織物おりものもなし。蝦夷錦えぞにしきというものがあるが、これは中国は北京ぺきんより輸入し、王ばかりが着て、国民は手に入らない。よって、みなみな昆布こぶを身にまといけるが、そのままではかっこうが悪いと、このたび呉服屋ごふくやを開店し、昆布こぶに変わる、変わりじま小紋こもんなどを並べ、ことのほか見事みごとなり。
蝦夷えぞ中、日本のとおりにせよ」
というおおせを出されたので、江戸八百八町はっぴゃくやちょうならぬ蝦夷えぞ八百八町を開き、ことのほかにぎわう。
呉服屋「これはニセモノではございません。本物ですよ。おーい、お茶をもってこい」
客「山東京伝さんとうきょうでんの描いた『小紋裁こもんさい』のような小紋はないかい。ワイロに使うから、高くてもいいものをおくれ」

 


十四

 江戸八百八町はっぴゃくやちょうならぬ蝦夷えぞ八百八町の外に、水辺のあしを切り開き、日本の吉原をまねて、新芦原しんあしはらという遊郭ゆうかくをつくれば、今までなかったものだから、ことのほか繁盛はんじょうし、客のえることなし。ところがここには金銀がないので、代わりに昆布こぶ数の子かずのこを使えば、金持ちは、昆布こぶ数の子かずのこ駕籠かごにつめこんで遊びまくる。
 ダンカン家来けらいインオリスウウラミンテール両人も、大の昆布こぶ持ちとなり、日夜、芦原あしはらへ通って楽しむ。ごきげんとりからは贈り物を受ける。
蝦夷人「秘密のお願い、なにぶんよろしく。へへへへへ」
ウラミンテール「おぬしわるよのお、承知しょうち承知」

 


十五

 ダンカンは、義経の命令だと言って、蝦夷えぞ中の、昆布こぶ数の子かずのこを、荒布あらめ、ごまめと交換し、残らず回収したところ、しめて十二万三千四百五十六億七万八千九百九十九ひょうありけるを、半分ならまだしも、十分の一を義経のくらにおさめ、残りを全部自分の倉におさめさせる。
「俺の御倉おくらへおさめて、小倉おぐらあんに、さらに砂糖さとうをかけて、贅沢三昧ぜいたくざんまい、おなかへおさめよ」
車引き「回収された俺の昆布こぶ数の子かずのこも、この中にあるんだろうな」
車引き「そこだぞ、ヘンテコ、テコヘンテコヘン」

 


十六

 ダンカンは、蝦夷えぞ中の、昆布こぶ数の子かずのこを回収し、十分の一を義経の倉におさめ、残りはみんなせしめて、何不自由なく暮らし、家屋敷いえやしきも新しくして、義経公をご招待もうしあげる。実はこれ、義経主従しゅじゅうを酒でつぶし、残らず皆殺しにし、自分が蝦夷えぞの大王となり、日頃気になる、かいらん夫人を女房にしようという計画なり。
 義経公は、そんな計画は最初からわかっており、ダンカンをわざと出世させ、蝦夷えぞ中の、昆布こぶ数の子かずのこを残らず回収させ、ダンカンの屋敷に入れさせたのだ。
 ダンカンは、一世いっせいの晴れ舞台ぶたいだと、山海さんかい珍味ちんみをつくし、義経公を招待する。義経は、鬼退治に使う神変奇特しんぺんきどく酒をもって、しうれん大王をはじめ、残らずつぶし、寝込んだすきに、昆布こぶでこしらえた宮殿や建物、衣服まで脱がせ、残らずきざみ昆布として、数の子かずのこの石垣は袋にしまい、美しくつくった蝦夷えぞの地を、元の島国にしたまう。
 しうれん大王をはじめ、そのほかの蝦夷えぞ人は、義経の計略けいりゃくで、前後も知らずぱらい、丸裸にされる。
義経「ダンカンというやつは、里芋さといものような頭で、そなたを口説くどくとは、いやなやつだ」
弁慶「亀公、これで昆布こぶが一億二万びょうできたぞ。もっとせいを出して昆布をきざめ」

 


十七

 大王はじめ、ダンカンらが目を覚ましたところ、日本をまねて都をつくったはずなのに、義経によってきざ昆布こぶにされ、辺り一面元の海辺となっている。
ダンカン「これが本当のダンカンの夢の枕だろう(『邯鄲かんたんの夢の枕』のダジャレ)。
♪夏かと思えば雪も降り、四季折々おりおりは目の前に~♪
亀井、片岡、弁慶べんけい海尊かいそん常陸坊ひたちぼう)も、たちまち飛び去った。おもしろくもなんともない。残念無念ざんねんむねん。こうやって裸で団扇うちわを持つと、風呂屋へ入ったドロボウがすずんでいるようだ」
 義経公は、昆布こぶ数の子かずのこを数万びょうたわらめ、鞍馬くらま僧正坊そうじょうぼうの力を借り、かいらん夫人や、そのほかの美人、亀井、片岡、伊勢いせ駿河するが武蔵坊むさしぼう常陸坊ひたちぼうもろともに雲に乗り、飛び去りたまう。
義経「たわらと雲の上は、意外と乗り心地ごこちやわらかでよい」
僧正坊「俺はたびたび出てくるから、効果音はなしの登場にしよう。行きたいところへ、突っ走れ。カーツッ、かつ

 


十八

 義経公主従しゅじゅうは、雲に乗って、いずくへともなく飛び去りて、と思いきや、おびただしい数の昆布こぶ数の子かずのこ土産みやげに、日本国鎌倉かまくらへ帰りたまいしなり。もともと、頼朝よりとも不仲ふなかというのは、最初に説明したとおり、表向きばかりのことなれば、頼朝公も、ことのほか喜ばれ、昆布こぶ数の子かずのこを浅草のいちに出して売らせ、莫大ばくだいな金もうけをし、それを山分やまわけされて、さかえ栄える鎌倉山、おさまる御代みよぞめでたけれ。
「今年のいちで安いのは、昆布こぶ数の子かずのこだ」
あけましておめでとうござります
  北尾政美まさよし
  恋川春町戯作げさく 

 


 作中、貿易をすすめるダンカンは、田沼意次たぬまおきつぐをあてている。田沼時代には、商業が発展し、町人文化も花開いたが、町人が富豪ふごう化するにしたがい、ワイロの横行おうこうが始まった。一昔前の時代劇で、
「お代官様、ふところにこれを」
「フフフフ、越後屋えちごや、うぬもわるじゃのう」
というシーンとなる。

 余談ですが、「越後屋」という屋号は、三井、三越だけでなく、いろいろな店が使っていたようだ。
 昆布こぶは、昔は広布ひろめと呼ばれ、広めることから縁起物とされ、また「喜ぶ」=「よろこんぶ」とも言われるようになった。数の子かずのこは、卵が大量にあることから、子孫繁栄しそんはんえい象徴しょうちょうとされた。
 正月のおせち料理にはかかせないものである、昆布こぶ数の子かずのこを前面に出した本作品は、正月に発行されるので、めでたいづくしとなっている。

 こんな作品が、江戸時代にあり、読まれていたことを、多くの人に知って欲しい。
 

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