百人一首「かるた会」論②
各地には、短歌や俳句のふるさととなっている所も多いし、歴史的な場所もたくさんある。地域を知り、地域を愛することにもつながるので、そういう説明もしたい。
「神戸学検定」ではないけど、神戸は平清盛ゆかりの地だけでない。菅原道真も神戸に縁がある。そんなことを知らない人もたくさんいる。ついでにいえば、石原慎太郎・石原裕次郎も神戸の生まれだ。政治や映画は国語と関係ないけど、慎太郎は「太陽の季節」を文学史で覚えなければならないし、芥川賞、直木賞の解説にも使える。
「むすめふさほせ」の一字札は、初歩の暗記では、「この歌から覚えよ」と言う。
そして、「む!」と言って、しばらく時間をおいたりもする。
村雨の露もまだひぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ
「ほ!」……
ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる
「月ぞ残れる」で「係り結び」の説明もできるし、「有明の月」の説明もできる。
有明の月(明け方の月)は、語句的な説明だけでなく、灯りのなかった時代の説明もできるし、震災でライフラインの絶たれた生活の説明もできる。明け方、平安貴族は女の家を出るので、日本語は明け方の言葉が豊富だ。妻問婚の話は小中学生には早すぎるか。
なんせ、かるたの時は、子どもたちは真剣で、学習に集中している。この学習チャンスを生かさない手はない。うまく説明を入れる。もちろん説明ばっかりになったらかるたへの集中力がそがれてしまうので、そこは匙加減(さじかげん)。
仲間づくりは、全体のムードをつくれば、ほっといてもできる。ぱっと手が触れ合った異性にぽっとしたり。……なんてことを考えてるのはおっちゃんだけか。
札を読みながら周りを見る。仲間に入れずにいる子、一つも取れずにいる子に注意を向ける。取れない子には、読み終わっても誰も取れずにいる札を目で合図して教えたり、その子に見えるように指さしたりする。指さしを他の子に見られたら、後は知らない。「えこひいきだ」と非難が集中する。みんな札に集中しているからあんまり見つからないけど、ね。
「覚えているのに取れない」「覚えていないのに取れる」というのは、覚えていないから。
「覚えているのに取れない」のはPISA型テストと一緒で、応用できるまでに覚えていないから。覚えたものを活用するところまでいっていない。ただ暗記しているだけ。
それでも覚えているだけで、すごい。練習を繰り返せば早く取れるようになる。
「覚えていないのに取れる」のは、周りも覚えていないから、勢いがある者が有利になっているだけ。
だからみんなに覚えさせるために、わざと一字札を「む!」で終わらせたりする。「む!」のままで、時間をとったりもする。覚えていなかったら、いくら待っても取れない。「霧は秋の季語や」とか「秋は霧だけど、春は霞」とか雑談をしながら、「む!」→「霧たちのぼる秋の夕暮れ」と覚えさせる。周りが覚えだしたら、勢いで取れていた者も、これはちょっとやばい。覚えなければと思うようになる。
ついでに言うと、テストに関しても、小学校の時には、勉強をしなくても国語の点数の高い子がいる。
もちろん読書家であったり言語環境が優れているから国語ができるのだけど、そういう子は、「国語は勉強しなくてもできる」と思いこんでしまう。だから、「勉強しないとテストで点数が取れない」ことを身にしみてわからせるために、文法等知識事項の問題をテストでは多く出すようにする。授業を聞いて復習しなければわからない問題だ。読解の選択肢でも、わざと間違えそうなひっかけ問題を多くする。じっくり読まないと間違える。
できるだけいい点をとらす指導もあれば、できるだけ点数をとらせない指導もある。目的は何か、ということだ。「勉強しないと点数は取れないんだ」ということを、義務教育の間に教え込む。
基礎を教えなかったら、基礎を学ばなかったら応用もきかず、「生きる力」も身につかない。はじめから応用だけ教えていたら、どこかで応用が利かなくなってしまう。
以上、「かるた会」と銘打ってはいるけど、実際はかるた会を利用した国語の授業、本当の国語力をつけるためのお話です。
藤原定家「小倉百人一首」を使ったかるた、カルタ、歌留多、骨牌の子どもたちへの指導法
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