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恋する百人一首③
生き物は、恋してセックスして子どもを作る。これが自然な流れ。恋する喜びを詠った歌が「百人一首」にも多くある。
ところが人は、LGBTQ以前に、素直に恋することができず、「忍ぶ恋」になることもある。人間には社会があるので、社会の中で生きるには、ルールが必要となるが、そのルールを破る恋もある。
高等な野生動物では、本能的に兄弟や親子でセックスできないようになっているものもいる。ところが人間は脳が発達しすぎて本能が薄れてきた。本能が薄れた分、人はタブーやモラルを作った。「親子、兄弟とセックスしてはいけない」。「人を殺してはいけない」。
「他の人の配偶者に恋してはいけない」と、他人にされて嫌なことを脳で考えながらきまりを作り、法や道徳でそれを守らせようとした。しかし生物の本能は「恋する」ことだ。他人の配偶者であっても、好きになったものはどうしようもない。
それが「忍ぶ恋」の一つだろう。
他にも、素直に「好き」といえない恋が人の世にはたくさんある。そんな思いを五七五七七の歌にして、自分の心にけじめをつけながら、人は生きてきた。
43首ある百人一首の恋の歌の3回目。(最初の数字は、恋の歌43首の通し番号。後の数字は、百人一首の通し番号)
15―42 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは
ちぎりきな かたみに袖をしぼりつつ末の松山 波越さじとは 清原元輔
あなたと約束したのに。涙で濡れた袖をしぼりながら、末の松山を波が越えることがないように、心変わりすることはあるまいと。
「末の松山波越さじ」で永遠を表す。永遠に愛すと誓ったはずなのにと、ここでグチを述べているのは相手につれなくされたから。作者、清原元輔は清少納言の父。どんな父にも母にも、若い頃の恋の思い出がある。
16―43 あひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり
あひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり 中納言敦忠
あなたに逢って契りを結んでからの恋しい心に比べると、それ以前は何の思いもしなかったと同じだ。
「あひ見ての」は「逢い見ての」。「逢う」は、ただ「会う」のではなく、男女が一夜をともにすること。ただ思っているときと、体を重ねた後とでは、思いが全然違うと言っている。身も心も一つとなり、思いがさらに激しくなった。家族や友人にも、そこまで自分の全てをさらすことはない。体の隅々までをさらすことはない。服に覆われた全てをさらすと、心の中もさらしたように思われ、心が解放される。安らぎがある。それが恋なのだろう。作者、藤原敦忠の母は、「伊勢物語」の主人公とされる在原業平の孫にあたる。敦忠は業平のひ孫になる。
17―44 あふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし
あふことの絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも恨みざらまし 中納言朝忠
逢うということがまったく期待できなくあきらめてしまえるのなら、相手の無情さも自分の不運さも、恨むことがないだろうに。
「逢う」は、男女がセックスするために会うこと。逢えずにこんな思いをするのなら、こんな関係にならなければよかった。逢えないつらさを詠う。作者は、藤原朝忠。
18―45 あはれとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな
あはれとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな 謙徳公
私をかわいそうだと言ってくれそうな人は思い浮かばず、きっと私はむなしく死んでしまうのだろうな。
私が死ぬのは、恋い焦がれたため。恋の病で命を縮めると言っている。命を失うほど思いつめた恋。ところが作者、謙徳公=藤原伊尹は、若い頃はプレイボーイだったらしい。こういうセリフがホイホイ出てくるからモテるのかな。
19―46 由良のとを渡る舟人かぢを絶え行くへも知らぬ恋の道かな
由良のとを渡る舟人かぢを絶え 行くへも知らぬ恋の道かな 曾禰好忠
由良の水路を漕いで渡る舟人がかじを失って困りはてるように、これからの行方もわからぬ恋の道だ。
「由良のとを渡る舟人かぢを絶え」が序詞で、言いたいのは「行くへも知らぬ恋の道かな」。この恋がどうなるかわからない、と言っている。好きでたまらないからこそ、不安も大きくなる。
20―48 風をいたみ岩打つ波のおのれのみくだけてものを思ふ頃かな
風をいたみ岩打つ波のおのれのみ くだけてものを思ふ頃かな 源重之
風が激しく、岩にぶつかる波だけがくだけ散るように、私だけが、心もくだけるばかりに思い悩んでいる今日この頃だ。
岩はびくともしないが波だけがくだける。あなたの心はびくともしないが私だけが思い悩んでいる。「風をいたみ岩打つ波の」が序詞で、波のように私の心もくだけ乱れている。あなたをこんなに思っているのに、あなたの心は動かない。激しい恋の思いを詠っている。
21―49 み垣もり衛士のたく火の夜はもえ昼は消えつつものをこそ思へ
み垣もり 衛士のたく火の夜はもえ昼は消えつつ ものをこそ思へ 大中臣能宣朝臣
内裏の御垣守である衛士の焚く火のように、夜は恋の思いに燃え、昼は心も消え入りそうになり、毎日のように思いわずらっている。
御垣守は宮中の警備の人、衛士は兵士のこと。「み垣もり衛士のたく火の」が序詞で、その火のように、夜は恋人と激しく燃え、昼は一人落ち込む。夜だけ逢える妻問婚の恋に悩む心。キャンプファイヤーの火が心ときめかすように、「飛んで火に入る夏の虫」が、危険だとわかっていても飛び込まずにはいられないように、「火」が激しい思いを表現する。そんな恋のやるせない思いを詠う。
22―50 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな 藤原義孝
あなたに逢えるならば惜しくはないと思った命までも、お逢いできたあとは、長く生きていたいと思われる。
「逢う」は夜の床を一緒にすること。あなたに逢えるのならば、命なんか惜しくないと思っていたのに、逢えた後は、ずっとあなたと一緒にいたいので、長く生きていたいと思う。そんなもんだろうな。それが恋なんだろう。
23―51 かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじなもゆる思ひを
かくとだに えやはいぶきのさしも草 さしも知らじな もゆる思ひを 藤原実方朝臣
私がこんなに思っていると言うことさえできないので、伊吹山のさしも草ではないけれど、これほど燃えているわたしの思いを、あなたは知らないでしょう。
「かくとだに、えやは言う」で、「こんなにも思っていることを言うことができない」だが、「言う=いふ」が「伊吹山=いふきやま」とダジャレになっている。伊吹山は、さしも草が名産。さしも草はヨモギのこと。お灸のモグサになる。お灸は火をつけて燃やす。さしも草から「さしも知らじな」という言葉をダジャレで出す。「さしも知らじな」は、「(これだけの私の思いを)知らないでしょう」。ダジャレを駆使しながら、好きな女性へ手紙を贈っている。
24―52 明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな
明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな 藤原道信朝臣
夜が明けるとまた日が暮れ、夜はあなたに逢えるとは知っていながら、やはり恨めしいのは朝の別れだ。
妻問婚の当時、夜、女性の元を訪ねた男性は、朝早くには帰る。その男性から、別れたばかりの女性に贈った歌。歌を贈り合いながら恋を深めていった。
百人一首の50番までの中に、22首の恋の歌がある。恋の歌43首中、24首を紹介して、今回はここまで。
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見出し画像はぱくたそからお借りしました。
後ろ姿しか見えないから恋心がつのる。そして結ばれると、身も心も全てをさらけ出せる。自分が無防備な存在になれる。まさに「逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」だ。