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自分らしく生き、周囲のために命を燃やせる人に/竹下梨帆さんの節目の物語

2年間のアメリカ留学、日本の国立大学への編入、アナウンサーとしてNHK岐阜放送局に就職と、華々しい経歴を持つ“りほちゃん”こと竹下梨帆さん。

彼女は、2023年3月でNHKを辞める決断をしました。そこにはどんな想いがあったのでしょうか。彼女の “今の想い”をインタビューさせていただきました。
※文中では、普段通り“りほちゃん”と呼ばせていただきます。

竹下梨帆(Riho Takeshita)

1996年、愛知県生まれ。
高校卒業後、2年間のアメリカ留学を経て日本の国立大学へ編入。ミスコングランプリを受賞するなど順風満帆な人生だったが、アナウンサー採用試験では100社近く落ち続け、初めての挫折を経験。「これがダメだったら諦めよう」と思って受けたNHK岐阜放送局で、見事採用されてアナウンサーの夢を掴んだ。3年間リポーターを勤め上げ、2023年3月にNHKを退職。新たなステージへの一歩を踏み出している。


「行きたい」を貫いた海外留学


――NHK岐阜放送局を辞めるという、大きな決断をしたりほちゃん。まずはアナウンサーになる前の人生を振り返りたいのですが、転機となった出来事はありますか?

やっぱり、アメリカの大学に留学したことですね。もともとは、高校2年生のときにカナダに1ヶ月間留学したのがきっかけでした。17年間ずっと愛知県で育ってきたのですが、初めて外の世界で1ヶ月間を過ごして「こんな世界があるんだ!」と視野が広がったんです。

例えば午後2時半に集まってくださいと言われたら、日本人なら5分前には集まるじゃないですか。でも、海外の方は遅れてくるのが当たり前で(笑)しかもそれを皆が許容していたんです。それがすごく自由で、楽しくて、私にとってとても新鮮でした。もちろん遅れるのがいいというわけではないけれど、そういう自由な雰囲気や価値観を持つ人たちにもう一回触れたいと思ったんです。それに英語が話せるようになったら、もっと人生の幅が広がりそうだなとも思いました。

――それで海外の大学に留学したんですね。

そうなんです。しかし高校の先生には大反対されました。当時は「国公立大学に進学すべき」という風潮の強い高校で、「受験から逃げているだけだ」と言われてしまったんです。でも私は、反対されると逆に燃えるタイプで(笑)2年間アメリカの大学で学び、その後日本の国立大学に編入しようと決めました。海外留学と国立大学編入を両方実現させて「先生を見返せるように頑張ろう!」って思ったんです。

――不屈の精神ですね…!素晴らしいです。

ですが、いざ海外の大学に行ってみたら辛いことも多くて。高校生のときに留学したカナダでは、周囲も留学生ばかりだったので友達が作りやすかったんです。しかし今回は現地の学生ばかり。最初は全然相手にしてもらえず、すごく辛かったです。

それでも学ぶことは多く、徐々に友達もできて、考え方や価値観が大きく変わりました。アメリカの大学では、高校生から70代まで幅広い年齢層の方が学んでいたんですよね。私は同級生たちと卒業が1年ずれるだけでも嫌だと思っていたのですが、年齢は関係ないと気づかされたし、皆「これを学びたい」っていう目的意識をすごく持っていて。それがとても印象的でした。「年齢にとらわれず、自分の気持ちに素直に従って、今やりたいことをする」そういう姿にとても感銘を受けましたね。

アメリカの2年制大学の卒業式

今思えば、この海外留学のときが一番自分らしく生きていた気がします。「海外に行きたい」という想いを貫けたし、30カ国以上の人に出会いさまざまな価値観に触れ、新しい発見に毎日ワクワクしていました。英語が話せることで、日本語だけでは知れなかったことを知れるのが本当に嬉しかったですね。


初めての挫折。複雑な思いを抱えアナウンサーへ


――一番自分らしく生きられた留学時代。アメリカを離れるのは辛くなかったですか?

とっても辛かったです…!日本に向かう飛行機の中で泣きましたね。本心ではまだアメリカにいたかったのかもしれません。しかし当時はアナウンサーになりたくて、日本の4年制大学を卒業する必要がありました。そのため日本に戻って編入試験を受けたんです。

――アナウンサーになりたいと思った理由は…?

私にとって、活躍していて、影響力があって、かっこいい女性の象徴がアナウンサーでした。小学生の頃テレビが大好きで、アナウンサーの高島彩さんに憧れたんです。そこから私もアナウンサーになりたいと思うようになりました。

――そうだったんですね!アナウンサーになるための就職活動はかなり大変なイメージがありますが…。

もう本当に、就職活動は辛い思い出しかなかったです(笑)100社近く落ちたと思います。あの頃は日々泣いてばかりでしたね(笑)今思えば、当時はアナウンサーになるためだけに生きてしまって、“今”を生きていなかったんですよね。だから面接で語れることがなくて。もちろん海外留学の話はありますが、就職活動では「自由に生きていた海外留学の話はしないほうがいい」と思い込んでしまって。自分らしさを封印していたんです。だから本当の自分を伝えられず空回りして落ち続け、さらに自分をもっとよく見せなきゃと背伸びして…。本当に自分が誰なのかわからなくなってしまいました。

辛かった就職活動の時期


――大変な苦労があったんですね…。そんな中、NHK岐阜放送局に採用されたときはひときわ嬉しかったですか?

嬉しいというよりは、ようやく終わったな…という気持ちでした(笑)ただ、100社落ち続けた私を拾ってくださった場所でもあったので、まずはここで精一杯頑張ろうって思いました。


“今”を積み重ね、自分らしさを取り戻した3年間


――アナウンサーとして駆け抜けたこの3年間は、どんな時間でしたか?

自分らしさを取り戻して、“今”を生きられるようになった3年間でしたね。今までは必死に頑張ってきて、自分の夢を叶え続けてきた自負はあったんですが、就職活動では初めての挫折を味わいました。しかし、そのおかげでプレッシャーから解き放たれたんです。

――プレッシャーから解き放たれた、というと?

私は「常に上を目指さなきゃ」と思うタイプで。頑張っても結果に満足できず、常に不安で自信がない状態だったんですよね。でも、アナウンサー試験では100社も落ち続け、入社してからもたくさんの失敗をして…(笑)常に良い自分を見せようとしていたけれど、もうそんなこと思わなくてもいいや、と思えるようになった。ありのままの自分を受け入れられるようになったんです。

多くを学んだアナウンサー時代


――辛い経験の中で、得たものがあったんですね。

本当にそうですね。また、周囲への感謝の気持ちが本当の意味でわかるようになりました。リポーターの仕事は主に自分で企画していましたが、上司をはじめカメラマンや編集さんの協力があってこそ実現できていたんですよね。チーム無くしてテレビの仕事は成り立たないので、全員に対してありがたい気持ちでいっぱいでした。そう考えたときに、今までも自分が頑張ってきたつもりでいたけれど、周囲の支えがあったからこそ、やりたいことができていたんだなと気づいて。

アナウンサーとしての3年間で、自分も受け入れられるようになったし、周囲への感謝も本当の意味でわかるようになった。人生で初めて地に足がついた感覚で、着実に“今”を生きられるようになったと感じます。

――その集大成となったのが、東金聖さんのリポートでしたか?

東金聖さん制作のティーカップと

2023年3月、今までの仕事の集大成として岐阜県に住む芸術家・東金聖さんのリポートを制作。3ヶ月間彼女に密着取材し、彼女の人柄や、芸術作品を支える美濃焼の技術を紹介した。実際のリポート記事はこちら

本当に集大成でした!海外留学の経験から「日本を世界に伝えたい」という想いがずっとあって。彼女を伝えることが、日本を世界に伝えることになると思ったんです。

それに、彼女と私のキーワードが結構似ていて。海外留学していたこと、本当はアメリカにいたかったけれど帰国せざるを得なくなって、落ち込んでいたときに岐阜に移り住んだこと。多くの点が自分と重なりました。しかも彼女は、自分の陶芸作品がパリコレで紹介されて、後世に残るようなブランドにしていきたいという夢を語っていて。こんなに大きな夢を語れる彼女に胸が熱くなり、応援したくなりました。

そのために私ができることは、NHK岐阜放送局の番組で彼女を取り上げることだと思ったんです。しかもNHKワールドという海外向けの番組に取り上げられたら、彼女のパリコレという夢が近づくかもしれない。それに、岐阜や日本の文化を世界に伝えることに繋がるかもしれない。私の使命だと思いました。最終的にNHKワールドに取り上げていただくことができて、英語のナレーションも担当できたので、今までの人生がすべて繋がりましたね。


新たなステージへ。周囲のために命を燃やせる人に


――たくさん苦労もしたけれど、想いの詰まったアナウンサー生活だったんですね…!それでも、NHK岐阜放送局を辞めると決めたのはなぜですか?

聖さんの企画を終えて、この場所での仕事はやりきったなと感じました。本当は私、番組の専属キャスターになりたかったんです。結局その夢は叶わなかったんですが、2022年12月に1週間ほど代理のキャスターを務める機会をいただいて。そこで初めて「スタジオで原稿を読む仕事よりもリポーターとして伝えるほうが好きだ」と気づいたんです。今までリポーターを中心にやってきたので、ここでの仕事はもう悔いなくやりきったと思ったんです。

――そうだったんですね。

性格的に、新しいことに挑戦したいタイプなんですよね。「人の選択肢を広げたい」という夢があって、特に学生や20~30代の女性に向けて人生の選択肢を伝えていきたいんです。選択肢を知ることで視野が広がるし、人生が豊かになると思うので。今後はそういう情報を伝えていくことが自分の使命だと感じています。

NHK岐阜放送局卒業の日

――選択肢を知ることで人生が豊かになる。確かにその通りですね!具体的には、今後どんなことをしていきたいですか?

特に「キャリアの面で人の選択肢を広げたい」と思っていて、Instagramのライブ配信を活用できないかと考えています。具体的には、アナウンサーやキャビンアテンダント、バレリーナ、ライターなど様々な職業の方にインタビューをして、人生ストーリーを伝えたいですね。海外に住んで働いている人もいいかもしれない。配信を見る方のキャリアの選択肢が広がったら嬉しいです。

――若いうちに多くの選択肢を知ることができれば、その先の未来はきっと拓けていきますよね。素敵な活動だなと思います!最後に、3年後の自分に伝えたいメッセージをお願いします。

アナウンサーの3年間でやっと自分らしさを取り戻せたから、このまま自分らしく生きていてほしいです。そして聖さんの企画をはじめ、テレビ局でのさまざまな取材を通して「人のために動けるって幸せなことだな」と気づけたので、周囲の人の幸せのために命を燃やせる人になってほしいです!

――自分らしく生きると同時に、これからは周囲の人も幸せにできるように進んでいくのですね…!これからのりほちゃんの活躍が、ますます楽しみです!

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インタビューを終えて…


りほちゃんとの出会いは、2022年7月に入会したキャリアスクールでした。海外留学、国立大学への編入、ミスコンでグランプリ獲得、現役アナウンサー。誰よりも輝く経歴を持っているのに、どこか自信なさげな様子で。しかし初めて会ったときから8ヶ月の時を経た今、りほちゃんは自信に満ち溢れた笑顔を見せてくれました。

話を聞けば聞くほど、たくさんの苦しさや悔しさが伝わってきて。その一つ一つがりほちゃんの糧になって、輝きを増してきたんだね。自分らしさを取り戻したりほちゃんのストーリーも、きっと誰かの人生の選択肢を広げるヒントになるんだと思います。

「これからは、周囲の人のために命を燃やせる人になりたい」
自分も周囲も幸せにしていけるりほちゃんなら、きっと大丈夫。NHKを辞めて新たな一歩を踏み出すりほちゃんを、これからも応援しています。

インタビュアー/記事:佐々木かなえ
元バリキャリOL。苦手な仕事を頑張りすぎて休職した経験から「得意を活かして楽しく働く」がモットーに。現在は、得意なカメラ・ライティングスキルを活かして働く方法を模索中です。


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