見出し画像

「年間100冊」を目標に絵本読み聞かせを5年以上続けてきたわたしの思う、この意義。

予め断っておきたいのは、ここに書くことは全てわたし個人の感覚に基づく考えで、学術的に裏打ちされたものではないということ。根拠のない、絵本オタク素人の感想と「思い」である。
このように、効果に確実性がない訴えほど胡散くさいものはないとわたし自身思うのだが、それでも書きたい。

また、「年間100冊の絵本を読む」という目標について。長女が生後3ヶ月から2歳半くらいまでは冊数やその内容を記録し、年間およそ100作品を読み聞かせていた。しかし次女の誕生でその継続が難しくなってしまった為、現在の正確な数は分からない。
そもそも、「読んだ」という定義もかなり曖昧だ。読んでも子どもは聞いていないなんてことはざらにある。それに、冊数をこなすだけではなく同じ作品を何度も繰り返し読む。

よって、「冊数カウントしていた時期からペースは崩さないまま、5年以上読み聞かせを継続してきた」くらいの状況だと捉えてほしい。

それに加えて、1年半ほど絵本サークルによる読み聞かせ活動、乳児向け絵本読み聞かせボランティアをしてきた経験から感じたこともある。

諸々書いたが、とにかくわたしは絵本を愛しているし、絶対的に、子どもの発育のため意味あるものだと確信している。そんな気持ちで続けてきた読み聞かせを通し、わたし自身が今思う「読み聞かせの意義」について書き残したい。しつこく繰り返すが、素人の所感である。

⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎

1.想像力を養う

はい出ました、想像力。形も答えもない抽象概念。出だしからかなり胡散臭いけど、でもやはり1番はこれなのだ。

そもそも、子どもにとって「絵本を読む」とはどういうことなのか。印象的なエピソードを挙げたい。

読み聞かせに関する書籍(作者失念、というか曖昧なのでここでは書けない)に書かれていたもの。

【幼い息子が、英語の絵本を手に取り、読んで、と渡してきた。
これはあなたにはまだ読めないよ、と伝えると
うぅん、僕、読めるよ!と返してきた。そのやり取りを通し、子どもにとっての「読む」という行為は、大人の思うそれとは違うのだと気付かされた。
絵を見て、音を(声を)聞いて、その世界を自分の中で思い描くことなのだ、と。】

うろ覚えだが大体こんな感じ。つまり、「読んでもらったものを理解する」のではなく、目の前の作品から、自分の中で想像を膨らませるものなのだ。絵と文(ここでは英語)が繋がっていなくてもいい。全く違う風に捉えたっていい。自分だけの世界を思い描くことなのだ。

たとえこれが日本語だったとて、幼児にその全てが分かる訳ではない。恐らくその語感や声色から何となくのニュアンスを嗅ぎ取るのだ。もっと言えば、言葉が必要ないものだってある。

言い換えれば、理解させようとしなくて良いということ。まずはシンプルに、見て・聞いて、楽しいと思えること。少なくとも、子どもの感性に何かしら働きかけているのだ。これだけでかなりの意味があると思う。

⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎

想像力について、角度を変えて考えたい。「絵を読む」ということ。

中世欧州における「宗教画」は、識字率の恐ろしく低い時代、庶民にその教えを説く、という目的があったらしい。説法者の話を聞き、絵を見て理解していたのだ。つまりは教科書代わり。
現代のような派手で鮮明な映像のなかった時代の人々の目に、躍動感のある絵画はまるで目の前に起こる現実、動いているかのように見えたであろう、とのこと。(参考文献・中野京子先生の作品より)

同じことが、絵本にも言える。子どもたちが、じっと絵本を見つめる表情で分かる。その瞳に映る絵は、ちゃんと動いているのだ。

充実した映像美に溢れる時代だからこそ、こういった感覚を育てる機会が必要な気がする。

⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎

また、「読んでもらう」という側面も想像への扉だ。基本的に、ひとりの読み手が複数の役を読み分けるのが絵本。聞き手自身が、そのセリフはだれの言葉なのか、前後の文脈や描かれた様子から読み取らねばならない。こういう能力も、併せて想像力と言えそうだ。

そう思えば、読み手の力量も試されるというか。一般的に、「絵本を読むときはあまり感情を込め過ぎないように」と言われる。恐らく「読み手が色を付けすぎると自由な想像に繋がらない」といった意図なのだろうが、ある程度の演じ分けや情感は必要なのかなぁ、というのが個人的な意見。
たとえば、「さんびきのくま」のように、対照的なキャラクターが面白い作品なんかは特に。「大きな声で言いました」「泣きそうな声で答えます」、こんな表現があれば、それっぽく読んだ方がいいだろうし。
あまり棒読み過ぎず、演技派にもなり過ぎず、といったところか。この辺がやはり答えのないもの。

そういえば、小学生低学年の頃、朝のホームルームの時間にボランティアで絵本読み聞かせに来てくれるお母さん達がいた。そのうちおひとりは凄く情感を込めて読む方、もうおひとりは優しいトーンでゆっくり読む方だった。わたしはどちらの読み方も大好きだった。お二人のお人柄も含め、かなり鮮明に記憶している。だからやはり、大切なのは「作品と子どもたちに対し、愛情を持って読む」ことなのではないかと思う。

⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎

2.知識を得る、経験をつむ

絵本に出てきたものが、子ども達の現実世界と繋がることがある。わたしはそこを逃したくない。子どもの心が育つ、何かが芽生える瞬間だと思うから。

それは、たとえば動物とか乗り物とか「物体」だったりイベントや季節の行事のような「空間、文化」だったりと様々だ。

それらを現実で目にした時、「あっ絵本で見たやつだね」という気づきが生まれる。ここで、きっと子ども達の頭の中で何かガチっとはまるものがあると思う。
絵本が先か現実が先か、それはどちらでも良い気がする。とにかく、概念同士が結びつく感じ。

少し話が飛躍するけど、ヘレン・ケラーが、手で触れている「水」そのものと、サリバン先生が手のひらに書く「water」の指文字の概念が一致した瞬間にも近いのかもしれない。(あれほどのドラマチックな衝撃はなかろうが)

それらが繋がった瞬間、子どもは情報を全身で吸収しているはず。大きさ・触り心地・香り・音・その場の空気…目の前のあらゆる情報と、絵本のイメージを一体化させる。これこそ、学び。

ここで個人的に意外なのが、絵本のイラストがリアルでなくても良い、ということ。まるで写真のようなタッチの絵が現実と繋がる、というのは分かりやすいのだけど、デフォルメされた絵であっても、子どもはちゃんとリンクさせられる。これはわたし的に、結構感心する事実。人って、おおまかなイメージで対象を捉えてるんだなぁ、と。
だから、色彩豊かな絵本ばかりが人気ではないのにも納得。【1.想像力】の箇所で、「動いていないのもが動いて見える」と述べたが、子どもは「描かれていないものや色」を見出すこともできるのだ。

⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎

では、絵本と現実とを繋げる経験が必ずしも必要なのか、と言えばそうではないと思う。「知らない、見たことがないからこそ」…という側面もある。これもやはり【1.想像力】に立ち戻る。

たとえば、海外絵本。ここでは文化の違いを想像するしかない。わたし達の生活には全く馴染みのない食べ物やアイテムが登場する。まだ見ぬ世界を知る。知らない、という事実を知る。これも学びだ。

美味しそうだな、かっこいいな、どんな触り心地だろう、…思いを馳せる。そして「不思議・疑問・憧れ」など様々な感情を抱く。これも経験。大切な情緒成長となるはず。

作家の江國香織がエッセイ「やわらかなレタス」(文春文庫)でこう述べていた。

以下、要約。
【子どもの頃読んだ海外の物語には、知らないたべものがいろいろ出てきた。わからないからこそ勝手に妄想をふくらませることができた。それらは、自分のまわりに実際存在するたべものとは違う「輝かしくおいしいに違いないもの」だった。
………
子どもの本に登場する「バターミルク」。「新鮮な」とか「しぼりたての」とかの形容がついているそれは、素朴で清涼なおいしいものに感じられてしまう。】

こんな、甘美な想像を幼い頃から重ねてきたからこそ磨かれた彼女の感性。すごくすごく、共感した。言わずもがな原文はもっと瑞々しいタッチで述べられている。(おすすめ本です。)

またこれは、海外絵本に限らず、時代背景や文化の異なる国内作品でも同様だ。

絵本の世界と現実を繋げる、それは自分の世界を広げることとなる。新たに何かを知る、興味を持つ。こんなに素晴らしい経験がつめるのは、絵本ならでは。

⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎

ご近所さんの家庭菜園のお野菜とか、食卓に並んだ料理とか、そんな日常の光景から
「これ、絵本で見たやつ!」という気付きが生まれる。親子でそう言い合える瞬間はかけがえのないものだ。この時の、娘の表情の輝きときたら。結局、シンプルに言えばそういうことなんだよな。

⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎

では、まだそういう「知識や経験」のフェーズではなさそうな、赤ちゃんはどうなのか。

絶対に価値がある。わたしは、絵本読み聞かせボランティアとして、市内の生後3ヶ月乳児検診に参加している。
そこで赤ちゃんに絵本を読んでいると分かる。ちゃんと「なんだこれ?」って顔をしている。絵本を目で追う子もいれば、わたしの顔を見ているだけの子もいる。いつもと違う声が気になる…なんて子もいるかもしれない。それだけで充分なのだ。「なんだこれ?」だけでいいと思える。それが刺激となり、きっと感性の土台となるのだ。

これまた不思議で、大人にはなにが面白いのか分からないけど、「大抵の赤ちゃんが気にいる絵本」というのがある。なぜあんなに凝視するのか、ちゃんと研究に基づいて作られているのだろうけど、実に興味深い。
また、時期によって興味を持つ持たないもあるから、とにかくまずは読んでみてあげることに価値があるはず。

⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎

3.ひととの触れ合い

わたしは、どんなに我が子にイラついていても、絵本を読み聞かせしていると、心が穏やかになる。
子どもと密着し、絵本を読む。リズミカルで美しい言葉を口にする。温かなイラストを見る。こうしていると、次第に心が落ち着いてくる。そんな親の様子を察し(子どもは敏感だ)、我が子もリラックスしてくる。読み聞かせを通し、作品を超えた何か…通じ合うものが生まれる。
そんな効果が、絵本にはある。

「絵本は、子ども自身に読ませるものではありません。大人が読み聞かせるものです」と断言する人の文章に出会ったこともある。そうやって、大人が与える時間に価値があるのだと。

それもあって、とにかくわたしは、娘が文字に興味を持つ前から「絵本を大人に読んでもらう」経験をたくさん持たせたかった。読む側になると分かるけど、文字を追っていると「絵を読めない」のだ。「文を聞きながら、絵を読む」からこそ、子どもはちゃんと絵本と向き合える気がする。温かな声色、ページをめくる仕草。それも子どもにとって価値ある記憶となる。

もちろん、自分で読むことができる時期となったらその経験をつませていくべきだ。つまり「読み聞かせ」と読書(ひとり読み)は、役割が違うと思っている。

⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎

以上が、わたしの思う「読み聞かせの意義」だ。

こうしてたくさんの絵本に触れていると、時代と共にその変遷を感じる。
ストーリーも、最近は「多様性」を暗示していたりかつての固定概念から外れていたり(家族の形とか役割とか)。

作風にも流行りがあるようで、最近の人気作はよりコミカライズされているという印象。イラストのタッチしかり、文章しかり。擬声語が描かれているものや、セリフが、それを話すキャラクターの近くに印字されているもの(つまり、吹き出しの絵がないだけ)なんか、こりゃほとんど漫画だなぁと思う。

また、極めて個人的な意見だが「絵本に具体的な効果を求める」のは、違うと思う。
「センスを育てる絵本」とか「教養を身につける絵本」とか、そんな売り文句で作品紹介する子育てインフルエンサーの方を見るとわたしはガッカリする。

親の都合で絵本を使うべきなのかなぁ、と。子どもが何を感じて学ぼうが自由なんだから、そんな「効果」を期待しなくても。結果として、センスが磨かれたり知識教養が身につく場合もあるのだ。だからまずは楽しく絵本を読もうよ、と思ってしまう。まぁ、選書のヒントということなのか…。

「大人を感動させる絵本」なんかも、同様に「感動を子どもに押し付けている」場合がある気がする。これは実は、現代の⚪︎⚪︎問題を暗示していて…とか。
何か感じねばならない・テーマを読み取らねばならない、等は気にしなくていいと思う。それは大人が楽しめばいい。

⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎ ⚪︎⚪︎⚪︎

わたし自身、子育ての理想と現実の乖離が甚だしく、かつて思い描いていた母親像とはかなり遠いところにいる。

子どものために何でもやってあげたいと思っていた。しかし実際、そういう訳にもいかない。親としてしてあげられることは、有限だ。
だからこそ、これだけは…、絵本の読み聞かせだけは、絶対に続けると決めた。娘たちが望む限り。

色々と書き殴ったけれど、気づいた。結局、わたし自身が子どもの頃たくさんの絵本との出会いに恵まれていたのだと。それは母をはじめ、周囲の大人が与えてくれたものだ。だから今度は、与える側になりたい。

懐かしの絵本を手に取った大人たちは言う。
「あぁこれ、子どもの頃読んだなぁ」
その表情は皆一様に、とても嬉しそうなのだ。

絵本を読み聞かせる場には、必ず「対話」がある。
読み手と、聞き手と、作品との対話。そしてそこには、温かな空気が流れている。

だからわたしは、今の子ども達にもたくさんの絵本に触れてほしい。我が子だけではない。読み聞かせの会に来てくれる子ども達のまっすぐな眼差しが、わたしの心を動かす。
わたしのやっていることには、意味がある、と。

いいなと思ったら応援しよう!