【読書日記】11/26 漢詩の世界に遊ぶ。「いつかたこぶねになる日/小津夜景」
いつかたこぶねになる日
小津夜景 著 新潮文庫
フランスで暮らす俳人の日常と、その暮らしに寄り添う漢詩、そこから繰り広げられる思索。
西洋と中国と日本、現代と過去を軽やかに行き来する融通無碍の境地に魅せられました。
たとえば、表題の「いつかたこぶねになる日」は、フランスの海辺の小津さんのこんな一文から始まります。
小津さんの頭から離れないタコ。
タコの「孤独を愛するライフスタイル」に思いを馳せ、さらに「たこぶね」という種類のタコのことを連想します。
たこぶねは、「地中海の宮殿のような貝殻」でゆりかごのように卵を育て、母のたこぶねは、卵が孵ると、その貝を捨てて新しい生活を始めるのだ、と。
そして、小津さん自身の思い出「自分は十五歳で脱藩するのだという覚悟をもっていた」と語ります。
小学生にしてはただごとではない覚悟ですが、これはご母堂の訓導の賜物。
このご母堂の言葉からかつての女性の不自由さを、祖国を出る痛みを思い、さらにむかしの女子教育と家父長制についてさかのぼります。
そんな不自由な社会の例外として江戸時代の女性漢詩人原采蘋(はらさいひん)に言及します。
父が政変により没落した時、二人の息子をさしおいて家名再興を託したのは采蘋であり、彼女が、父の命により故郷を離れて江戸に上る時の詩がこちら
「鯨にまたがって盃を干す」
当時としては型破りだったであろう女性の旅立ちに際しての覚悟と気概と晴れがましさが伝わってきます。
小津さんの思いは、江戸時代からフランスの海辺に戻り、貝のイメージと女性の生き方を重ね合わせたアン・モロウ・リンドバーグの記した随筆をひきながら「たこぶね」のように生きることについてこう綴る。
ここで少し翳った思いを吹き飛ばすような鮮烈な潮の香りと光に満ちた光景を描いてこの一章は終わります。
あ、漢詩が墨絵の世界から飛び出してきた、そう思いました。
中華風のファンタジーで、師が弟子をあちこちの世界(他国、仙界、天国・地獄、過去・未来等)に連れて行ったり、そこで試練を課したり、という設定をよく見かけます。
さながら、私という読者を小津さんが師となり、あるときは飄々と風にふかれて、あるときは滔々と水にゆられて、漢詩の世界を巡り巡ったような読書体験でした。
もっとも、あとがきで、小津さん自身は「案内せず 干渉せず、ただ放っておくこと」と「この本が読者を案内するものではない」と書いているので、私はさしづめ押しかけ弟子といったところでしょうか。
本書で取り上げられている漢詩には、それぞれ小津さんが訳した日本語の詩が添えられていて、それも本書の魅力の一つです。
漢詩といえば、いかめしい読み下し文と今まで決めつけていました。
読み下し文には独特の格調高さがあってこれはこれで魅力がありますが、それでは、この芳醇な詩の世界には気付かないなあ、と思いました。
本書で紹介されている詩人の中には菅原道真、藤原忠通、新井白石、夏目漱石等、日本人も多くいます。
私にとって「漢詩」は「そこにあるのに見ていない」ものだったようです。
平安時代も江戸時代もこの国の学問の主流は漢学であり、漢詩は普通に作られていたはずです。
しかし、私の関心からはすっぽりと抜け落ちていて、今まで日本でどのような漢詩が作られてきたのか知ろうとしたことはありませんでした。
だから、本書で漢詩の多彩な魅力を知り、長年放置されていた親戚の蔵を開けたら面白い蔵書がいっぱい詰まっていた、というくらいの興奮を覚えています。
さて、小津さんの綴る日々にはコロナ禍もあり、病も老いも貧も争いもあります。
けれども、一篇の詩があればいつだって魂は広大な世界に解き放たれる、そんな「詩」の力も改めて感じました。
さあ、明日からまた忙しい日常が始まります。
心に詩を蓄えて立ち向かいたいと思います。