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【新発見?】マーラー10番とショスタコ6番の密接な関係

マニアックな話題だが、昨日知って「へえ」と思ったこと。

以下の記事によれば、ショスタコーヴィチ(以下ショスタコ)の交響曲6番は、マーラー未完の交響曲10番の影響下に作曲されたらしい。


マーラーのミステリーがついに解決された(Slippedisc)


マーラーの第10(1910未完)と、ショスタコの第6(1939)は、似ているな、と多くの人は思っていたと思う。

どちらも、交響曲には珍しく、緩徐楽章から始まる点と、とくに冒頭開始の雰囲気、第1主題が似ている。

以下、両曲の第1楽章第1主題。楽譜が読める人は、似ているのがわかると思う(とくに最初のモチーフ)。


譜例1

マーラー10番第1楽章の第1主題(wikipediaより)


ショスタコーヴィチ6番第1楽章第1主題(全音ミニスコア解説より)


でも、ショスタコの6番が、マーラーの10番に影響された、と、誰もはっきり言えなかった。

なぜなら、未完で残された10番の遺稿(ファクシミリ)は、1911年のマーラーの死後、ウィーンのごく少数でしか出回っていなかった。補筆版の演奏も、ウィーンやオランダで試みられただけで録音されていない。

ソ連から出たことがないショスタコが、その音楽を知っている確証がなかったんですね。

1942年に、後家のアルマが10番の補筆をショスタコに依頼するから(断られたが)、そのときに見たのは確実ですが、6番の作曲は1939年なので、それ以前だ。

そしてショスタコも、6番の作曲の動機を説明するとき、マーラーの10番に一切触れていない。


ところが、ショスタコには、マーラーの10番を4手ピアノ版にアレンジした未完の楽譜が残されていた。

それは1920年代後半のものと思われる。それが初めて演奏され録音された、というのが上掲の記事なんですね。

つまり、ショスタコが、6番作曲のはるか前に、マーラーの10番を熟知していたことが証明された。

ショスタコの親友で、ロシアへのマーラーの紹介者であった音楽学者イヴァン・ソレルチンスキーが、ショスタコに10番のファクシミリを渡していたのだろう、ということだ。 


影響関係といっても、ショスタコ6番へのマーラー10番の引用が、意図的であったか、無意識的であったかはわからない(上記記事は無意識的としている)。

また意図的であったとしても、どういう意図があったかも、今となってはわからないだろう。

(6番作曲の時点では、マーラーの未完の10番が演奏されるようになるとは思っていなかったかもしれない。もしかして10番の補筆完成を断ったのは、6番と似ているとバレると思ったから?)


ショスタコの音楽全般がそうだが、6番は、5番とともに、その意図がいろいろ議論され、解釈が揺れてきた曲だ。

5番の快活な終楽章が「共産主義革命」の表現であると思われた時代には、6番の陰鬱な第1楽章は「レーニンの死を悼む」音楽とも言われた。

もちろん、今は、そんな単純な音楽でないことはみんな知っている。

バーンスタインは、6番を、同じロ短調であるチャイコスフキーの「悲愴」の後継と捉えていたが、マーラーのエキスパートである彼にしても、マーラー10番との影響関係は論じていなかったと思う。


私は専門家ではないので、ショスタコが早い段階でマーラーの10番を知っていた事実が、本当に最近の新発見と言えるかどうかは、わからない。

しかし、もしそうだとしたら、今後、これらの曲に言及したり、これを演奏する際には、その影響関係を踏まえなければならなくなる。大げさに言えば「教科書を書き換える」発見ということになるだろう。


素人の私の感想としては、ショスタコがいかにマーラーを愛していたか、それがよくわかったのが発見でした。


参考年表


1910年 マーラー10番の作曲に着手

1911年 マーラー死去(51歳) 10番は未完となる

1924年 遺稿にクシェネクが補筆したマーラー10番(1、3楽章)、ウィーンとアムステルダムで初演

1920年代後半 ショスタコ、マーラー10番第1楽章を部分的アレンジ

1939年 ショスタコ、6番作曲

1942年 アルマ・マーラー、ショスタコに10番補筆を依頼、断られる  


参考演奏

マーラー 交響曲第10番(クック版)

ショスタコ 交響曲6番


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