書評家はムカつく
死んでから松岡正剛の悪口を言うのは卑怯だ。生きているうちに言え、というのは、それはそうかなと思う。
でも、わたしは書評家に、人権とかあまり認めていない。
出版人は、生きてるうちは、書評家に文句が言いづらい。
いわゆる「お世話になっている」から。
何を書かれても、書評してもらえるだけで有り難いと思わなければならない。
編集者を長年やってると、それで鬱憤が溜まってくる。
ある「知の巨人」に書評された著者が、わたしに言ってきた。
「僕の本を書評してるんだけど、言いたいことを完全に誤解している。逆に解釈している。あの人はなんなんだ」
わたしは言う。
「先生、こらえましょう! 黙っていましょう! それでも宣伝になるんですから」
いまでも思い出す。
2回くらい、本当に我慢がならない書評があって、わたしは我を忘れて怒った。
最初はまだ若いときだったから、こっちも血気盛んで、その書評を載せた出版社に殴り込もうかと思った(ビートたけしの事件のすぐあとだった)が、上司に止められた。
2回目のときは、こっちも大人になっていたから、抗議文を書くだけで許してやった。
書評家は、業界で、隠然たる権力をもっている。
書評をやるなんてのは、他に仕事のない、大したことのない奴である。
それなのに、書評家のポジションを得ると、偉そうにする。業界人たちに頭を下げられるから。PRの人(パブリシスト)から接待を受けたりしてね。
学者や知識人は、たいがい新聞を愚劣だと思っているけど、表立って批判ができない。
なぜなら、新聞がいまだ代表的な「書評機関」だからだ。自分や仲間が本を出したとき、書評してもらいたいがために、新聞の悪口を言えない。
新聞社も、それが分かっているから、書評欄をつづける。退職した学界の大物を書評委員にしたりして睨みをきかせる。文学賞や出版賞も主宰する。知識人に悪口を言わせない、一種の脅迫手段である。
書評は、他に大した仕事ができない、能力のない奴、または能力がなくなった奴に回ってくる仕事だが、それゆえ、わたしも長らく書評を書いていた。
その時代のことは早く忘れたい。
死ぬときは、きっとそのせいで地獄に行く。
自分で本を買って、真面目に書評する人もたまにいるが、たいがい業界からハブられて長く生存できない。そういえば、小谷野敦氏のAmazonレビューは全削除されたらしい。
一般に書評家は本を買ってない。タダで手に入れて勝手なこと言ってるだけだ。それで知識人ヅラをする。
本をつくる立場で言えば、たとえ褒められても、書評はそんなうれしくない。
どうせ「互いに褒め合う」業界の翼賛体制で褒めてるだけだから。
編集者は、本を買ってくれた普通の読者から、「買ってよかった」と言われるのが、いちばんうれしいです。
<参考>