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本の美しさ

賀茂真淵が読みたい!

と急な欲望が芽生えて、図書館で古典文学全集の「歌論集」を借りてきた。

で、読み始めて・・

なんだこの版面の美しさは!


と驚いた。


新編日本古典文学全集87「歌論集」(小学館、2002)


読みやすいだけでなく、美しく、心地よい。これぞ本だ、と思った。

装丁者名を探すと、目次の最後に小さくある。

ああ、菊地信義か、と。



菊地信義の仕事はたくさん見てきたつもりだが、これは知らなかった。

よくよく本のあちこちを見ると、なるほど菊地だ。すべてのページに神経が行き届いている。菊地でしかあり得ない、と思う。

多色刷りなのに、カラーだと感じさせないあたり、まさに菊地の後期の様式だ。


こういう本こそが「出版文化」の名に値する。

今のいかにもInDesignで作りました、という本なら、わざわざ紙に印刷する必要はなく、デジタルデータのまま売ればいいと思う。そのほうが安いし、便利だ。

紙に印刷すべきなのは、こういうレベルのデザインをされたものだけだと思う。


今は装丁というと、カバーとかの外側ばかりが注目されるが。

装「丁」というくらいで、本来は中身のページのデザイン(本文の版面)が重要だ。というか、それが本というものの「本体」だ。

中身のページだけ買って、各自が自由に造本する、というスタイルが昔あった。そういうスタイルが個人的には理想だと思っている。


それはともかく、晩年の菊地さんが、デジタルやスマホ文化に、異常なほどの嫌悪感を示していたのを思い出す。

今にしてわかる。こういう「文化」が滅びることを、彼は知っていたわけだから。


私が出版業界に入った40年前は、ちょうど「活字」が滅びて「写植」の時代に入ったころだった。

「活字」にくらべて、写真植字の文字は弱々しいと言われた。活字の組版の文化が滅びることを嘆く人は多かった。

でも、私なんかは、「何を年寄りが古臭いこと言ってるんだ」と思っていた。


その「弱々しい」写植文字を使って、菊地さん他たくさんのブックデザイナーが、2、30年かけて、本の美の「文化」を作ったわけである。

この2002年に出た小学館の古典全集なんかは、その一つの到達点と言っていいと思う。


でも、もうその「文化」は、過去のものになりつつある。同じだけのデザイン力は、すでに再現不可能ではないか。


DTPによるデザインが、今の時代のデザイナーたちの才能と努力で、また新しい本の美の文化を作ることはありうるだろう。

ただ、日に日に余裕がなくなりつつある出版界では、少なくとも「紙」の上で新たな文化が生まれる可能性は低いと感じる。

あるとすれば、電書のデザインの革新だと思うが・・もう私には想像できない。


業界に入るとき、美しい本の手本として、われわれはグーテンベルク聖書とか、ウィリアム・モリスのケルムスコットプレスの本などを学んだ。

バブル期には、景気がよかったからだろう、日本橋の丸善に、それらの現物が展示してあった。


世界にたった四十八冊しか残っていない最古の活版印刷物として知られるグーテンベルクの「四十二行聖書」。1987年10月22日、ニューヨークの「クリスティーズ」で行われたオークションで、丸善は世界中の団体・個人との熾烈な入札争いの末、この書物を落札した。
落札額は、活版印刷物の取引としては過去最高額(当時)の490万ドル。手数料を含めると、支払額は日本円で当時7億8,000万円にも及んだ。
(丸善HP)


グーテンベルク聖書


ウィリアム・モリスの本



私が現役の時代には、杉浦康平や菊地信義らが、新たな「美しい本」の手本を作ってくれた。


でも、今の編集者やデザイナーは、もうそうした「手本」を持たないかもしれない。

最近は、経費節約のため、スピン(しおり)を省略することが増えていると聞いた。

昔の本好きは、本文書体とか、紙質とか、「のど」の寸法とか、製本とかにも一家言あったものだが、そういう「本の文化」そのものが消え始めているだろう。

菊地信義は、本のインクの匂いを嗅いだだけで、それが大日本印刷か凸版か分かると言っていた。


いや、どうも、すぐに老人のぼやき、繰り言、昔話になって、申し訳ない。

ただーーほとんど誰も借り出していないように見えるがーー図書館の片隅に、今ならまだ「出版文化の精華」が残っている。それを知ってほしいだけだ。




<参考>


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