正義を「主観的なもの」とみなす星野智幸と朝日新聞の致命的間違い

星野智幸という人が、「『正義』に依存し個を捨てるリベラル」という文章を、きのう(2024/8/27)の朝日新聞に書いていた。

一種の「リベラル批判」らしく、SNSのリベラル・左翼界隈で話題になっていたから、読んでみた。


ぐだぐだな原稿だけど、まあ言いたいことは分かるし、作家だから言葉を自由に使ってもいい。

でも、「正義」という言葉に関しては、随分と勝手な意味で使っていて、ちょっとヒドいなと思った。

「正義」という言葉の「消費」がヒドすぎる。


<引用始め>

リベラルな思想は疑う余地のない正しさを備えていて、そのような考え方をする自分には否定されない尊厳がある、とリベラル層は思いたいのだ。いずれも、普遍の感覚によって自分を保証してほしいのだ。

 「日本人」依存というカルト化が進んでいることに、11年前の私は強い不安を覚えたわけだが、じつは同時に、ずっと小規模ながら「正義」依存のカルト集団もあちこちに形成されて、その依存度を深めていったわけだ。

 個人を重視するはずのリベラル層もじつは、「正義」に依存するために個人であることを捨てている。「正義」依存の人同士で、自分たちが断罪されることのないコミュニティーを作り、排外主義的な暴力によって負った傷を癒やしている。

<引用終わり>


この人は「正義」を、「自分の意見に否定されない尊厳があり、それが普遍で無謬であると思い込む感覚」の意味で使っている。

つまり、「正義」を、主観性の最たるものだと非難している。

それで、リベラルは「正義」依存になり、カルト化している、とか言ってるわけですね。


確実に言えるのは、この人はジョン・ロールズの「正義論」を読んでない、ということですね。

ロールズだけではない。「正義は主観的なもの」という俗論に抗して、正義を客観的なものにしようと研究を重ねてきたリベラル派の哲学者たちの50年来の努力が、あっさり無視されている。

しかも、そんな原稿が、リベラル派のインテリが読むとされる「朝日新聞」に載っている。


「正義」という言葉を、星野のように使うと、それこそリベラル派の拠り所がなくなる。その致命的な誤りに、星野も、朝日新聞も気づいていない。

それにびっくりです。

とりあえず、井上達夫の『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』くらいは読んでおいてほしい。


井上も言うとおり、「正義」というのは客観的なものなんです。少なくとも、リベラル派はそう主張し、その客観性に依拠しなければならない。

(もし「正義」が主観的なら、「法」もすべて主観的なものということになる。それでいいんですか、ということ)

そんなのは、現代のインテリの常識だと思っていました。


星野という人の言いたいことを、哲学的に正しく言い直すなら、

「『個』に依存し、正義を捨てるリベラル」(が悪い)

ということですよ。言葉の意味が逆になっている。


つまり、自分が所属する党派の思惑と、「差別された」「傷ついた」という個人の感覚だけに依拠してる連中が「リベラル」づらしているのがよくない。

まあ、左翼とWokeのことです。本物のリベラルではありません。


こういう原稿が載るということは、著者も朝日も、リベラルと「左翼」の区別がついていない、ということ。以前から言ってるとおりです。

新聞がこうだから、社会が左翼の撹乱で混乱するのも不思議ではない。


SNSでの反応を見ると、星野の誤りに気づいている人は結構いるようでした。


途中までしか読めないが"「正義」に依存し個を捨てるリベラル"て正義フォビアのことば遊びだな、と。打ちのめされて痛い程に正義を求める状況からは遠い所に居るのだろう。気にしているのは自分の言葉の評判ばかりみたいに見える。
(みつ 2024/8/27 9:42)


読みました。 「法の支配(立憲主義)」への理解なく他人の「正義」「リベラル」「民主主義」を論ずる一人相撲をまた読まされた、と言う感想。 正義(justice、公正)が暴走するとか依存するとか思っているのは、現代社会ではそれが「法」になっている事を理解していないから。
(田川滋  2024/8/27  8:08)


〈立憲民主党も左派の「正義」依存のコミュニティー化しかけている〉何の批判かも具体的にしない正義フォビアの記事って不定期で見られるけどこれは驚愕。まったくしかけてなさすぎると思う。
(銀と桃ちゃん 2024/8/27  8:39)


"リベラルの正義依存"とやらを理解したという星野氏自身はしかし、「では自分は今どんな理不尽や不公正があって、何に理があり公正だと判断するのか」を述べていない。東浩紀や白饅頭と同レベルの虚無
(swika  2024/8/27  13:49)


星野智幸のあの文章がなんだかなあと思わせるのは「無謬性」を批判しながら、ものすごくナイーブに自分が思う「個人」や「文学」の無謬性を信奉しているようにしか見えない点だよね
(skks  2024/8/27  17:52)



繰り返しになるが、朝日新聞の編集者も、ロールズや井上達夫など(誰であれまともな政治哲学者や法哲学者)の本を読んでない。リベラルと左翼を区別する知性を持たない。こんな原稿を載せるわけですからね。

ということに、軽いめまいを覚えたので、書いときました。


あと、未明の地震にも、軽いめまいを覚えました。


<補足 8月29日>

以下、井上達夫の本から、参考まで、「正義とリベラルと客観性」の関連を論じた文章を引用しておきます。極度に理屈っぽい文章ですが、それが哲学なので。太字は引用者。


 正義を独断的自己合理化イデオロギーとして濫用する権威主義と、正義をそのようなイデオロギーに過ぎないとしてシニカルに断罪する相対主義は、どちらも誤っているだけでなく、人々を自己の独断に開き直らせる点で同じ穴のムジナである。正義の具体的基準をめぐって様々な正義の諸構想が対立競合するが、それらに対する共通制約原理としての正義概念が存在する。自己と他者の普遍化不可能な差別の排除を核心とするこの正義概念は、自己の他者に対する要求・行動が自己の視点のみならず他者の視点からも拒否できない理由によって正当化可能か否かの批判的自己吟味を、自己と他者双方に要請する。正義は独断的自己合理化の対極に位置し、批判的自己吟味を通じて他者への公正さを配慮し続ける責務を我々に課す。

 客観的真理の概念と普遍化要請としての正義概念、この二つの主導理念は、相異なる視点からそれぞれの生を生きる人々が、独断を超えて相互に他者に対して自己の精神を解放し、他者との公正な共生を希求することへの要請として統合される。この要請こそが、私が擁護するに値すると考えるリベラリズムの根本原理である。

(井上達夫『生ける世界の法と哲学』信山社、2020、p512)



<参考>



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