現象の外へ 『ブッダという男』
いまさら『ブッダという男』(清水俊史)を読んでるんですけど。
(半年かかって、やっと図書館で順番が回ってきた)
仏教というのは、つくづく変な教えですな。
ふつう、
「善いことをしたら死後に天国に行ける」
「その天国で永遠の生を得られる」
みたいなことを教えるのが宗教じゃないですか。
そういう宗教は、ブッダが生まれる前からあったんだけど、ブッダの独創性は、この本によれば、そういう「ふつうの宗教」を否定したところにある。
ブッダは、(中略)当時主流だった「瞑想を深めて現世で宗教的完成を得て、死後に天界で永遠の生を得る」という形では解脱できないと批判し(た)(p154)
仏教の理解に基づくなら、天界に再生することが叶い、長寿と繁栄を享受できたとしても、それは現象世界の内側にあるため決して不死ではなく、そこで死ねば再び苦難の多い地上に戻らなければならない。
ブッダは、現象世界との関わりが断たれることこそ解脱の境地と考え(た)(p155)
ブッダによれば、天国に行ったって、うっかり「死ぬ」ことがあるというんですね。話が違うじゃないか、となりますよね。
そうすると、輪廻の法則によって、また地上に戻って来て、修行のやり直しになる。
だからブッダの唱える仏教は、「現象世界の外」に出て、「完全に死ぬ」ことで「本当の不死」を得なければいかん、みたいな教えだというのです。
*
変じゃないですか。
なんでそんなに複雑に考えるのか。
現代人なら、そんなに「地上に戻りたくない、完全に死にたい」というのなら、そんな複雑に考えることはない、と思うでしょう。
たんに死ねばいい。
「輪廻」なんて妄想を持つから、考えが複雑になる。
死んだら終わり。
完全に死んで、よみがえることはない。
現代人はみんな、薄々そう思っている。
その現実を直視しさえすれば、仏教なんて要らない。
*
そういう現代人の考えは、まあ唯物論だけど、そういう考えは、この本によれば、ブッダの時代にもあったそうです。
古代にも唯物論はあった。
あの世なんかない。死んだらみんな終わり、という考え。
でも、ブッダも、当時の人も、それは間違っていると直感した。
現代人も、基本的には唯物論者でも、完全にはそれを肯定できないものを感じるでしょう。
その理由は、現代人も、ブッダや古代人も、同じだと思う。
唯物論は、「道徳否定論」になる。
それが正しいとすればーーつまり、善いことをしようが、悪いことをしようが、みんな等しく死んで「救われる」となれば、道徳が崩壊する。
やっぱり、善いことをしたら、善い結果が生まれる、という風であってほしい。
そうでないと、誰も善いことをしなくなる。
困るじゃないか!
ということになる。
だから、因果応報とか、輪廻とかの考えが、どうしても必要になる。
それはブッダ以前からあった。
そしてブッダも、そういう昔ながらの考えは否定できなかった。
現代人だって、どこかで「あの世」みたいなのを信じていて、善いことをしたら、死後に善いことがある、悪いことをしたら・・みたいなのを、どこかで信じている。
「道徳第一」に考えるなら、「人生は修行」であって、人間は善いことをしつづけることで永遠に人格が向上していく、ようなものであってほしい。
*
でも、人間は、ホンネでは、「善いことを永遠にし続けなければいけない」ような世界を愛していない。
実際には、ブッダの時代も、現代も、善いことをしながら生きるのは大変で、苦労ばかりが多いから、どこかで限りがあってほしいと願っている。
だから、仏教は、そういう人びとの「いっそ死にたい」というホンネと、いっぽうで人びとを、ニヒリズムにおちいらせず、善行をおこなわせるための世界観とを、調和させたものなんでしょうね。
いま「ニヒリズム」とつい言っちゃったけど、仏教に垣間見えるそういうニヒリズム、「道徳は無意味ではないか」「死ぬことが救いではないか」という思想が、19世紀にショーペンハウアーとかニーチェとかワーグナーとかの西欧人に発見されて、「死へのあこがれ」や「道徳の彼岸」をめぐる一連の思想や芸術を生むことになる。
そして、フロイトに、「ニルヴァーナ原則」「死の本能」を思いつかせることになる。
そういえば、三島由紀夫は晩年(「絹と明察」あたりから)、仏教思想を作品に引用した。
最後の『豊饒の海』が典型ですね。
あの作品は、ブッダのいう「現象世界の外に出ること」を、小説で描いてみせたのでしょう。
輪廻の終わり、終局の死、「完全に死ぬ」ということを、三島は作品に描き、自分でも演じようとした、と。
*
まあ、結論的に言えば、仏教が変な宗教というより、人間が変な存在で、その変な存在に合わせた宗教が仏教だ、ということなんでしょうなあ。
終わり。
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