谷崎潤一郎の「高血圧」とのたたかい
文豪・谷崎潤一郎(1886ー1965)は、好色と美食に耽溺した一生を送った。
ものすごい生への執着をもった男だった。
その裏返しとして、健康不安におびえ、死への恐怖を抱えて生きた。
若いころには、いまで言うパニック障害を発症し、その体験を「恐怖」という短編に書いている。
彼は、男の平均寿命が60代だった時代、79歳の長寿を享受した。
だが、50代から60代の創作の絶頂期、「細雪」執筆中に、高血圧症に悩まされる。
以下、「高血圧症の思い出」(中公文庫版『夢の浮橋』所収)より、彼の高血圧とのたたかいを年表風にまとめます。
(なお、谷崎は医者ではないから彼の記述が医学的に正しいと限らず、当時の医学常識や療法は現在とちがうことは踏まえてお読みください。)
(谷崎は著作権が切れているので、「恐怖」「高血圧症の思い出」を含めた作品は青空文庫などで読めるはずです。)
谷崎「高血圧症の思い出」年表
1935(昭和10)年ごろ(50歳ごろ)
医師から「血圧が170ある。今からこんなに高いのはよろしくない」と言われる。
谷崎は、「血圧が180を超えたら、2年以内に死ぬ」という説を聞いていた。
心配になった谷崎は、怖いので以後、血圧測定から逃げて過ごす。
なお、谷崎は大の食いしん坊、また酒飲みだったが、タバコは「2・26のころ(1936年、50歳ごろ)」にやめている。持病はとくにないが「糖尿の気がある」と言われている。
1941(昭和16)年(56歳)
日米開戦。食料が乏しくなるなかでも、谷崎はコネで豪勢な食事をしていた。ビフテキ、偕楽園の脂っこい中華料理、蛇の目寿司のマグロのトロなどが好物。
1944(昭和19)年(59歳)
美食仲間の「定ちゃん」が、高血圧がもとで死ぬ。自分もそうなる気がする。
心配した家族の勧めで血圧を測ったら、170から180あり、180を超えることもたまにあることを知る。
1946(昭和21)年秋(61歳)
終戦後、血圧を測ったら、「210か220」となっていた。
血圧降下剤(ジュウカルチンの類)を飲む。
1947ー1949(昭和22ー24)(62ー64歳)
阪大・布施信良教授の「自家血注療法」(患者自身の血液を腕の静脈から取り、その場で臀部内、または大腿部に注射する)を始める。
「上が200、下が150」だった血圧が、この療法の2回目で「上が180、下が120」にさがる。
以後、「上が160」前後を維持。
この間に「細雪」を完成する。
1949(昭和24)年秋(64歳)
「犬の名を呼ぼうとして、名前が思い出せない」ことから始まり、頭脳が混乱する症状が起こる。
医師に動脈硬化症の症状だと指摘される。
1952(昭和27)年(67歳)
この年の初めころ、医師から、「上が180あるが、有効な降圧剤がないので、無茶をしないように」と言われる。
実際には「血圧計の度盛りを突破するくらい高かった」とあとで聞かされる。
同じ年の春、「左の脚が右の脚より長い」感覚など体の異常を感じ、血圧を測ると「上が240」あった。
医師の判断で「瀉血」をする。
9日間、仰臥して、170まで下がる。
「血注療法」を再開するが、血圧は185、195まで上昇。
人の勧めで頭部への灸をためすが、症状が悪化。
脚が重くなり、眼が見えにくくなり、「意識の空白」が約10日つづく。
めまいが持続するようになる。
この年から、寝たり起きたりの「闘病生活」となる。
血圧は「180ー110」「188-105」あたり。
ここで、谷崎が、「死」を想って泣く場面が胸を打つ。
森閑とした部屋の中で、来し方のこと、行く末のこと、妻のこと、三十五年前に亡くなった母のことなどを考えると、ひとりでに涙が浮かんで来て、どうしようもないことがあった。
青年時代の「死の恐怖」は、多分に空想的、文学的なものであったが、七十歳に近い今日では、「死」は恐怖よりもひたすらに悲哀をもたらすのみであった。自分が死ぬときを考えて泣いたのはその時が始めてであったが、こう云う風に涙が湧いて止めどがないのは、死期がそう遠くない証拠に思えた。
(中公版「高血圧症の思い出」p158)
同じ年(1952年)の秋、
メイロンという重曹の液、
「しぶや」の渋、
週1回の減食、
などの療法をためす。
1953(昭和28)年(68歳)
阪大・西沢義人博士の推奨する「グルタミールコリン」を注射。
注射を半年つづけて、「上が200」あったのが、「上が160、下が80、90」まで落ちた。
10月10日、京都大学の前川孫二郎教授に、
「あなたの体は心配することはない。元来が頑健だから、取り越し苦労しないほうがいい」
と言われ、安心し、日常に復帰する。
1958(昭和33)年(73歳)
この年の秋から、再び「寝たり起きたり」の生活になり、これまでの高血圧とのたたかいを振り返って「高血圧症の思い出」を構想。
翌1959(昭和34)年の4~6月に「週刊新潮」に連載された。
谷崎の臨終
以上が「高血圧症の思い出」に記された病状だが、その後のことは、絶筆となった「七十九歳の春」に記されている。
話は、1964年(78歳)の暮れから始まる。
そうこうするうちに、十二月も押し詰まって大晦日になってから、果たして腎盂炎の兆候を表し、熱が四十度近くに上ったが、二三日すると奇跡的に熱が下がったので、正月早々東京お茶の水の病院へ運んでもらった。
入院したのは今年の正月八日であった。船橋聖一君が体を伸ばして寝られるような大型の自動車を持っていたので、それに載せて運んでもらった。(中略)
毎日毎日カテーテルの出し入れをする度毎に、顔馴染みのない、気心の分からない医師や看護婦にいじくり廻されるので堪らなく不愉快で、こんなことをいつまでも繰り返すのなら死んだ方がましだ、と思ったことも度々で、「死にたい、死にたい」と始終言い暮らした
しかし、谷崎は小康を得て、帰宅することができた。
以後、臨終までの様子を、山田風太郎の『人間臨終図鑑4』から引用する。
気力をとり戻した潤一郎は早速「お気に入りの女性」(註・女中の一人か)を連れて外出しようとした。(中略)
死の十日前までも、女を愛さずにいられなかった「痴人」谷崎潤一郎の凄まじさよ。
七月二十四日、七十九歳の誕生日には、親しい友人を招いて祝宴をはり、彼は久しぶりにシャンパンを飲み、卓上の料理を片っぱしから平らげる健啖ぶりを見せた。夫人によれば「殊にぼたん鱧(鱧=はも=をよく骨切りしたものに葛粉を叩き込みゆで上げ、おつゆの実にしたもの)が大の好物で、味わう暇があるかと思うほどの速さで、平らげた」
ところが、翌朝血尿を見、夕方から悪寒を訴え、医者から腎不全と診断されるに至った。
「その夜は是からが大変だから今夜は少しでも眠っておいた方がよいだろう、と先生方のすすめで、深更二時ごろ睡眠薬を飲んで、夫の寝室につづく和室に体を横たえて眠ろうとした」と夫人が書いているのは、二十八日のことと思われる。「眠りに入ろうとすると胸許が絞られるようで容易に眠れなかったが、薬の効目もあって、うつらうつらすると、何ともいえぬ声をききつけ跳ね起きた。ウオッ、ウオッと、それは猛獣の唸のように耳から頭へ響き渡った。渾身の力をこめて言葉にしようとする声であった。前日まで三日続いた高熱も下がり無尿状態であったのだが、少量ずつ排尿も見られるが、既に尿毒症を併発していることは素人目にもあきらかであった」
「終焉の前日も、『このまま寝かせて置いては僕は死んでしまうよ』と喚き一気に起き直った。泊り込んで戴いていた先生方の手を借りて、漸く体位をかえて一応は得心が行ったのかと思うと、又しても幼児のように諸手を差し伸べて、起して起してと振り絞るような声で云った。これこそ死の手から逃れる最後の抵抗、激しい拒否と見られた。一時はどうしても東京にゆかねば、と愛用のバッグ、お財布まで持って来させ、お財布は懐中深く自ら納めた」
危篤状態のまま、七月三十日の朝が来た。医者の診断を受けた直後、突然潤一郎は酸素吸入のマスクをはねのけてのけぞった。医者はただちに人工呼吸を施し注射を打ったが、そのまま絶命した。七時三十五分であった。
「寝室の窓から夏の強烈な陽が容赦なく、息絶えたばかりの夫の顔に降り注いでいた」(谷崎松子『倚松庵の夢』)
谷崎と火野葦平
なお、「高血圧症の思い出」が週刊新潮に連載された年、1959年の暮れから、芥川賞作家の火野葦平(52歳)は、自らの血圧を記録し始めた。
そして翌1960年の1月、突然自殺した。
自らの高血圧への不安が自殺の一因とされる。
谷崎の「高血圧症の思い出」を読んだ影響があったのではないだろうか。
火野自身が、谷崎の「高血圧症の思い出」に触れていたかどうか、改めて調べてみないとわからないが。
その影響関係は、専門家には常識かもしれないが、私はそれが指摘されたのを読んだことがない。
<参考>
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