見出し画像

『ジークアクス』はなぜ重層的かつ同時多発的な【カーニバル消費】を起爆したのか。


燃えあがれ『ガンダム』。

 『機動戦士ガンダム ジークアクス』が燃えている。

 もちろん、スキャンダルなどで炎上しているということではない。大人気で燃え上がっているという意味である。

 ぼくはこの作品(のとくに前半)はそこまで高く買わないかなと思ったのだけれど、これほど人気と評価が沸騰しているからには「何か」があると見なければならないことはたしかだろう。

 ひとつのアニメがこんなに集中的に話題になり、しかも絶賛一色というのはひさしぶりのことであり、注目に値する。

 いや、公開から時間が経つにつれ批判的な意見もぽつぽつ見られるようにはなっているが、それにしても圧倒的に評価が高いように思う。「庵野さんの脚本にしてはまあまあかな」などといっていた自分が斜にかまえた痛い奴であるかのように思えてくるくらいである。

 いったい、いま、「何」が起こっているのだろう。あらためて考えてみることにしたい。

いま、盛大な「祭」が起こっている。

 『ジークアクス』の公開によって何が起こっているのか、と書いた。じつはその答えは端的にいってしまうなら簡単だ。

 「祭」である。いま、まさにネットでは熱烈な「祭」が開催されている真っ最中なのだ。

 ある話題性の強い作品を中心にファンの間で熱狂的な評価がひろがることは『ヤマト』とか『イデオン』の昔からあっただろうが、インターネット、そしてソーシャルメディアの発展によっていっそうその規模は拡大した感がある。

 ネットがなかった頃と比べて行きかう情報の量は何十倍になっていることやら。

 もちろん、こういった形で話題となった作品はひとつ『ジークアクス』だけではないが、それにしても今回の「祭」はきわめて大きい。近年まれに見る大規模な「祭」がくりひろげられていることはまちがいない。

 少なくとも最近の「ロボットアニメ」では規模、熱量ともに最高を更新しているといって良いだろう。

それは「文脈消費」の拡大なのか?

 それでは、具体的にその「祭」とはどのようなものなのか。

 「『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』で我々はいったい何を楽しんでいるのか?ーー現代エンタメにおける「文脈消費」の拡大と深化」と題する以下の記事は、そのことを考える際、参考になるかもしれない。

 この記事では、過去のサブカルチャー消費構造論をひも解き、それらの消費がいま、SNSを通して同時多発的に起こっているのだ、と説明している。

しかし、本当に驚いた&衝撃を受けたのは、むしろ映画が終わった「後」だったかもしれない。

なぜなら、ガンダムファンであればあれを楽しめるのは当然として、さらに「初代ガンダムをそこまで観ていない人たちまでもが、SNSで盛り上がっている」からだ。

「ガンダムをよく知らないと理解できないんじゃないか?」と思うようなディテールが満載なのに、映画館を出てTwitter(X)やYouTubeを覗けば、“ガンダム初見組”や“庵野監督のエヴァしか観てない組”すら大興奮で語り合っている。

これはいったい、どういうことなんだろうか?

いろいろと考えていくうちに、ここにこそ、インターネット時代のエンタメ消費が抱える特徴が詰まっているのではないか。言い換えれば、「文脈消費」の拡大と深化が、一つの映画作品を超えたカルチャームーブメントを生んでいるのではないか?と思うに至った。

 「一つの映画作品を超えたカルチャームーヴメント」、それをぼくの言葉でいえば「祭」となるわけである。

決してあたらしいことが起こったわけではないが――

 この記事についてこれ以上、詳細に解説することはしないが(リンク先に跳んで自分で読んでほしい)、具体的には、大塚英志の「物語消費論」、東浩紀の「データベース消費論」などが参照されている。

 それらの言説は、サブカルチャー批評においては古典といえるものだ。それぞれにさまざまな賛否があり、一概にうなずけるところばかりではないことはたしかではあるものの、アニメやゲームなどの消費構造を説明するにあたってはとりあえず必読の文献である。

 この記事の著者は、こういったロジックをもとに、いま、それらの作品消費現象がひとつの巨大な「祭」をひき起こしているところを「「大きな物語の断片をデータベース化してサブカルの文脈に乗せ、作家自身の人生を投影し、それをファンが盛大に語り合う」という超雑多なプロセスが、同時並行で動いているのが、現代的なエンタメ消費のありようなのではないだろうか?」と説明している。

 個人的な意見としては、大枠では異論はない。つまり、そこで起こっているものがほんとうに大塚のいう「大きな物語」や東が語る「データベース」を背景にしているかは議論の余地があるにしろ、多様で多層的な作品消費が爆発的に広がっていることそのものには同意できる。

 とくに大塚の議論はぼくもすぐに思い浮かべた。『ジークアクス』の作品世界を語るにあたって、庵野秀明が考えだしたという「年表」は、ぼくのようなオールドファンにはいかにも往年の『トップをねらえ!』を連想させるのだが、これは「物語消費」の典型的な産物であるとされているのである。

 ぼくとしてはむしろなつかしいとすら感じさせられるようなやり口だ。

「しかけ」

 つまり、『ジークアクス』はむしろ表現の方法論としては古いことをやっているようにすら見えるわけである。しかし、じっさいにこれほどの人気を獲得しているからには、なにか新しいことが起きているに違いない。

 何がアニメ映画史上でも数少ないほどの「祭」を「起爆」したのだろう。いい換えるなら、鶴巻監督やスタジオカラーの面々はどのようにしてこのまれに見る「カーニバル消費」を励起させたのだろうか。『ジークアクス』人気の背景にはどのような構造があるのか。

 ぼくは上記記事に「大枠では」異論がないと書いた。それはウソではない。しかし、その結論には必ずしも納得していない。いや、まちがえているとまでいうつもりはないが、説明が不十分であると考えている。

 以下の有料箇所では、かなりいまさらではあるものの、「全面的なネタバレあり」でその点について踏み込んでみたい。

 いうまでもなく『ジークアクス』はある意味では「まだ始まってすらいない」物語であり、「お楽しみはこれから」ではある。作品の全体像について語れることはそこまで多くはない。

 ここでは、おそらく庵野秀明の脚本によると思われる物語の前半パートを中心に、その「しかけ」が意味するものを読み解いてみたい。

 もちろん、『ジークアクス』をすでに見た人に向けた内容なので、未見の方は読まないように。すでに映画を見ていて興味のある方のみ課金するかサブスクのメンバーシップに入るなどしてご一読をよろしくお願いします。

「やりやがった!」が意味するもの。

 さて――ネタバレだ。『ジークアクス』の「祭(カーニバル)」をひき起こしたもの、それは表層的にはある種のサプライズであるように、ひとまずは見える。

ここから先は

4,124字
この記事のみ ¥ 500
期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?