茶道の次の取材テーマは「居合」「抜刀術」へと、好奇心は駆け巡るー⑤
裏千家では「茶道」は「さどう」ではなくて、「ちゃどう」。「茶事(ちゃじ)」と発音します。表千家、武者小路家は「さどう」でも「ちゃどう」でも、どちらもあり。
最近、岡倉天心の著作で、日本人として初めての英語の本として知られている「茶の本(The Book of Tea)」を読んでいます。これは、茶道を通して日本人の精神性を紹介している本です。同時期の本で新渡戸稲造が書いた英語の本、「武士道」があります。「茶の本」では「禅と茶道」の関わりがきっちりと書かれています。禅宗の修行僧の日常の作法が、微妙に形を変えて茶道に生かされているのが分かります。
次の、長谷川等伯の小説を書くに当たって、キーとなる人間関係があります。それは、等伯を豊臣秀吉に売り込んでくれた、千利休の存在です。二人の関係性を表現していくためにも、茶道の知識は欠かせないと思いました。
さらに次は「居合術」の勉強が必要かと思いました。長谷川等伯は、畠山の家臣の奥村家で生まれ、養子に行くまでの間、武芸についても父や兄から薫陶を受けているはずです。そうなると歴史時代小説には欠かせない刀での軌り合いの場面が当然、登場します。これを書くために剣道ではなく、より実践的な「居合」の「抜刀術」の知識の方が有意義かと、思った訳です。
私の歴史時代小説の舞台も、甲冑を身に着けた殺し合いをおこなうアウトドア系から、城内、または茶室といったインドア系へと、その殺戮の舞台が移っていくことでしょう。そうすると「槍襖」もなくなり「鉄砲隊」も必要としなくなり、騎馬隊も「甲冑」も出番が激減していくこととなるでしょう。時代の変遷とともに、戦い方も変化していく。その変化に合わせた取材活動も、心掛けないといけない。
そう書きながら、『本当に小説に必要なのか? 単純に自分の好奇心なんじゃないのか?』と、もう一人の蜻蛉さんの声が心の中で聞こえてくる。もしかしたら、小説の必要性に迫られていないかも知れない。ただの無駄遣いになるかも知れない。しかし、「人生に無駄なことなど何一つない!」が私の信条である。
ゆえに「抜刀術」も、小説を書くために不可欠な取材だと決めて、労を厭わないように、と自分に言い聞かせて効率よく学んで行こう決し。そして、さっそく道場探しを始めました。上のあたりの道場かな?
空白が多かった日常生活ののスケジュールが、こうして埋まっていく。その次は美術館を訪ね歩いて、等伯の絵画と対面しに行きたい。でないと、彼の絵について書けないだろう。ましてや「虚心坦懐」に絵と対面することで絵自らが、等伯のについて語ってくれるはずだ。その彼らの囁きを聞きに行かなくてはならない。会わないことには、何一つ始まらない。「実際に会って話をすること」。それが私の信条だ………。本当に? そうに違いない……。
好奇心は尽きない。全ては小説を書くためにという動機が〝 源 〟である。