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鍵盤楽器音楽の歴史(69)死の舞踏オルガン

ハンブルクの東、トラーフェ川の河口に位置するリューベックも、北ドイツの有力なハンザ同盟都市であり、17世紀ドイツの音楽文化の中心地の一つでした。

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Luebeck 1641, Matthäus Merian.

リューベックの聖母マリア教会のオルガニストであったフランツ・トゥンダー (1614–1667) が1667年11月5日に死去すると、翌年デンマーク出身のディートリヒ・ブクステフーデ (1637–1707) がトゥンダーの娘と結婚してオルガニストの座につきます。

果たして娘との結婚がポスト継承の条件であったのかは良くわからないのですが、後にブクステフーデが娘との結婚を条件としてバッハを後継者に誘うも、断られたことは有名な話です。ちなみにマッテゾンヘンデルテレマンという錚々たる面々も同じく勧誘を受けていますが、やはり辞退しています。

リューベックの聖母マリア教会も、ハンブルクの聖ヤコビ教会に劣らぬ巨大なオルガンをもっていました。やはりミヒャエル・プレトリウスの《オルガノグラフィア》(1619) にその仕様が記録されており、3段手鍵盤+ペダルで、これまたペダルの比重の大きい北ドイツ式のオルガンです。残念ながらこのオルガンは後の1854年に全く新しいオルガンに入れ替えられてしまいます。

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Michael Praetorius, "De Organographia"《Syntagma Musicum II》1619, pp. 165-6.

一方、聖母マリア教会にはこの大オルガンとは別に「死の舞踏オルガン」Totentanzorgel と呼ばれる小オルガンがありました。この名はベルント・ノトケ (c.1440 – before May 1509) による〈死の舞踏〉図の飾られた礼拝堂にあったことによるものです。ただしこの絵は損傷が激しくなったため1701年に複製と交換されています。

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http://www.dodedans.com/Echapel.htm

このオルガンは1475-1477年に設置された当初は、1段鍵盤+ペダルというささやかなものでしたが、後に増設を重ねて、もはや小オルガンとは呼べないような規模に発展します。このオルガンは20世紀に至っても古いパイプを多く保持していましたが、1942年3月の空襲によって〈死の舞踏〉共々失われました。

破壊前の1941年のヴァルター・クラフトによる演奏の録音が残っています。

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https://www.orgelsite.nl/lubeck-sankt-marienkirche-voormalig-totentanzorgel/

現在の聖母マリア教会の Totentanzorgel は1986年にフューラー社によって新設されたもので、昔日の面影は全くありません。

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https://www.orgelsite.nl/lubeck-sankt-marienkirche-totentanzorgel/

なお死の舞踏、いわゆる「ダンス・マカブル」に関しては、なにやら悲劇的な調子で語られがちですが、中世の人にとっては、これは盆踊りみたいな感覚で受け止められていたのではないかと思うのです。

以下は14世紀の《モンセラートの朱い本》より〈死に向かって急げ Ad mortem festinamus〉です。たしかにこれなら死人も踊りだすでしょう。

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"Ad mortem festinamus," Llibre Vermell de Montserrat.



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