焦がれた相手を葬り去るたったひとつの冴えたやり方
山手線の列車で暴漢に襲われ怪我をした。顔面は裂傷しているが大したことはない、問題は頭部の損傷で大事に至らなければいいがと言われた。
美しい楕円状の筐体に入りながら、私は奇妙な安心感にとらわれていた。顔は最悪皮膚移植で何とかなるだろう。しかし出血がある場合、このまま昏睡状態に陥りかねない。連続的に回転しながら水素原子をコンピュータ上に再現する近未来的な機具に身を委ねながら、私は小さく溜め息を吐いた。
「愛は元素記号に還元されない」
あなたの肉体は主に十一の元素記号で構成されている。
水素。炭素。酸素。窒素。リン。イオウ。亜鉛。ナトリウムetc。
感情を司る脳の断面図を眺めながら、考える。
物質で愛を感じることが出来たらどんなに楽だろう。
物質とは肉体である。下世話な話セックスである。
極端な話、肉体的な交流のみで愛を感じることができたら簡便である。
にもかかわらず、なぜかわれわれ人類はそれをしない。むしろ進化の過程で、セックスを忌避すべき対象として禁忌の領域に追いやっている。
「あなたが本気で付き合ってくれたら他の人なんていらないのに」
そう言われたことがある。コンビニで売られている雑誌の表紙を飾るような存在だった。魅力的な相手だったが、私の他に五人ほど継続的に性的交渉をもつ相手がいた。愛人契約で万札を本の栞がわりにしておくような異性を、自分に変えられるとは思えなかった。そもそも、変える必要性も感じなかった。変えることが正しいとも思えなかった。私は極力相手の私的な事柄には立ち入らないようにしてた。
『むしろそうした相手を愛せる自信がなかった、自分の方に問題があったように思える』
当時の手帳には、そんな風に書き記してある。が、その言葉は嘘だ。私は未熟だった。愛せる自信がないのではなく、自分の魂が裂傷するのが恐かったのだ。それが頭部の損傷のように大事に至る可能性を忌避していた。要するに自分を守っていたわけだ。
肉体的な愛。だがその愛とは即物的なものだ。
即物的とはすぐに消滅するという意味である。
にもかかわらず、なぜわれわれは肉体的な愛に制約を受けるのだろう?
拘束力を働かせようとするのだろう?
束縛しようとするのだろう?
永遠を感じようとするのだろう?
単なる性的交渉に意味はないと感じてしまうのだろう?
焦がれた相手であればあるほど虚無感に襲われるのはなぜだろう?
なぜ行為で付いた魂の傷痕はいつまでも消えないのだろう?
私は鉄道警察隊の前で自分の倍ほどはある年齢の男を泣きながら謝罪させ、録音レコーダーを回しながら訴訟の可否を選択し、医療点数のかさむ救急車ではなくタクシーを選択するという冷静な判断を下しながら、傷痕が付かなければあらゆる行為は無価値なのだろうかと考えた。
「綺麗だ」
大輪の花びらのように輪切りにされた空白の投影画像を眺めながら、医者は言った。そこにあるのは虚無だった。心のない孤独が頭蓋の真空の容器に浮かんでいるようだった。傷一つ付いていなかった。ホチキスで強引に継ぎはぎされた外側の頭蓋には傷があるのに、内部にはまるで傷がない。感情は恐怖に苛まれているのに、目に見えない。存在しない。存在しないかのように見える。無意味であるかのように見える。
ところで最近、記憶が脳の外部にあるという話をきいたことがある。
最新の科学における知見で、プラナリアという生物は脳以外の場所に記憶があるらしい。心は腸にあるのではないか、という説もある。臓器移植に伴う記憶転移は比較的知られた事例である。
感情とは記憶の集積であるとプラトンは言った。
記憶がもしわれわれの頭蓋ではなく、肉体に宿るなら、感情もまた論理的には、器官に宿る。
性的交渉に意味はない。虚しさが残る。
どのような事柄も喪失感とは切り離せない。
われわれが生物である以上、時間的経過にともなう虚しさとは切り離せないからだ、だがその虚しさの蓄積だけが現実に生きる感情の虚数を反転させる。
あの一瞬。
そこに愛はあったのである。
確かに永遠は存在したのだ。
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ねとらぼ:https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1909/08/news010.html