『サンショウウオの四十九日』 単生児の感想【基礎教養部】

【注意】本記事には、『サンショウウオの四十九日』のネタバレが含まれます。あらすじや引用箇所の文脈の説明は最低限にしていますので、未読の方は通読してからこの記事を読むことを強くおすすめします。お構いなしで読んでいただいても構いません。

わたしは一向にかまわんッッ

烈海王

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それでは、本書の主人公である 「結合性双生児」杏と瞬の長台詞から印象的だったものを4つ取り上げ、それぞれについて感想を述べます。全部で五千字ぐらいあります。引用1,2 が全体の分量の7割を占め、引用3は一言程度の感想、引用4は論点の提示にとどまっています。

その1 キス

伯父が亡くなり思考が暴走気味になった杏を睡眠薬で寝かせた翌朝、工場に出勤した瞬が作業着に着替えながら考え事をするシーンです。起きてからも杏の意識がはっきりしていないためか、瞬は相方のトラウマ体験を思い出しています。

彼氏はいたことがない。しかし、大学生の時に一度だけキスをしたことはある。わたしが気になっていただけで杏はまったく好きではなかった。大学の飲み会の帰り、酔っ払った勢いでしたキスはわたしには幸せな記憶になって、杏にはトラウマになった。しばらくして二つの記憶は混じって、今では思い出すとマーブル模様の気持ちになる。二人が同じ人を好きになったことは今まで一度もない。性行為も共通の膣を使うのだから、どちらかがレイプされることになるので永遠にできない。子供が産めない体だとわかってからは興味もなくなってしまった。

瞬 p45

脳や記憶も共有している二人にとっては、相手にとっての悪い思い出はなるべく意識に上げないという紳士協定があるんでしょう。片割れがぼんやりしている間、自分のことを一人の人間だと思い込んでいる同僚たちと雑談しながら過去の思い出が脳内を巡ります。

「酔っ払った勢いでしたキスは」
お酒が入り、気が大きくなったってしまったようです。「手を繋ぐ」とかであれば相方を気にせずにできるはずですが、書いてないあたりほんとうにエイヤでキスしてしまったみたいです。
直後で明らかになるのですが、二人は看護師の資格を取っています。ということはこの飲み会は看護学部の集まりでしょうか。進路選択には芸術系の大学も視野に入れていたらしく、どちらも女性が多い環境ですね。男子にからかわれたりといった経験もあるみたいなので男が少なそうな環境を選んだのかもしれません。
物語を通して、瞬は性格的には衝動的で行動的、杏は思想書、学書を読んでいるあたりかなりオタクっぽいという対比がありますが、全体的な傾向としてはふたりとも内省的に考え事をするタイプです。

「子供が産めない体だとわかってからは興味もなくなってしまった。」
のところは、本当にそうなんでしょうか。確かに、「子どもを産むという目的のためにだけ、性行為が肯定される」というロジックはあるように思います。含意として、「子どもを作るのはめったなことではないから、性行為は原則禁止」のニュアンスを感じます。性教育として、快楽目的の性行為を戒め、子どものリスクを減らすためには有用な便法だと思います。が、この基準で性行為する/しないを判断している人がいたとしたら、性別問わず古風だと感じるかもしれません。完全に捨て去るのもそれはそれで享楽主義的でどうかと思うので、「古き良き」という憧れもないではないです。

「彼氏はいたことがない。しかし、大学生の時に一度だけキスをしたことはある。(中略) 子供が産めない体だとわかってからは興味もなくなってしまった。」
の性別を逆転させて、「彼女はいたことがない。しかし、中学生のときに一度だけキスをしたことはある。(中略) 性行為に興味もなくなってしまった」だと、酸っぱい葡萄の感を拭えません。
避妊テクノロジーが発達すると男にとってのリスク要因は減りました。「責任をとる」の代わりに「降ろしてくれよ」と言えるようになったということです。堕胎を奨めるかどうかに男性としての倫理の分水嶺が存在している感じはします。あからさまに相手を堕胎させたという話を聞かされたときは、いかがなものかと自分も思いました。
相手に注意を向けているか/いないか、という心の問題は、心理的リソースの相対的な配分で評価されています。性愛は、少なくとも心の領域ではゼロサムゲーム的なルールで動いているように思います。

子どもの描写についてもう一つ。自分たちの子どもに囲まれることを夢想をするシーンがあります。二人で一つ、ニコイチであることの完全性の象徴のような存在です。父は、元は伯父の一部だったのが大人になり、家庭を持ち子ども (瞬と杏) を授かりました。ひょっとしたら自分にもできるんではないか、という思いがあっても不思議ではないですね。医師からの説明を受けて、頭では子どもは作れないとわかっているようですが、生理の辛さや父親の存在といった日常感覚のレベルでは「子どもはできるはずだ」と思っていても不思議はありません。そういえば、子供のことを「愛の結晶」といったりしますね。瞬と杏のつながりは愛なんでしょうか。

瞬は作業員として、不良品のパン生地をこね直すしごとを担当しています。そのまま素通しするもの、手を加えればなんとかなるもの、どうにもならない不良。人生色々、パンも色々です。

その2 意識と身体

伯父の死後、考え事が止まらくなった杏が、意識と身体の関係について考察します。

意識はすべての臓器から独立している。(中略) しかし、一つの意識で一つの体を独占している人たちにはそれがわからない。思考は自分で、気持ちも自分、体もその感覚も自分そのものであると勘違いしている。(中略) 単生児は自分だけで一つの体、骨、内臓を保有していて思考や気持ちを独占する代わりに、その独占性に意識が制限されている。いや、意識を制限しているのは、この思考や気持ちは自分のものだという傲慢さによるものだ。自分の体は他人のものでは決してないが、同じくらい自分のものでもない。思考も記憶も感情もそうだ。そんな当然のことが、単生児たちは自分の身体でもって体験できないから、わからない。

杏 p58, 59

かなり強い思念の電波を感じる文章です。自分 (筆者) のあたまが杏の思考に乗っ取られないように、抗います。

「思考は自分で、気持ちも自分、体もその感覚も自分そのものであると勘違いしている」

持病で難儀していたことがあるので、「だよねー」思いながら読みました。つまり、この点で僕は双生児に近い感覚の持ち主です。消化器系なのでナニを垂れ流すわけですが、体 (主に腹部と肛門) はもちろん言うことを聞かないし、頭も体につられて、しんどいなー以外のことは考えられないようになります。
ところで、僕は男ですが、女性にとっての生理も不随意的に垂れ流される、という点で似たようなものだと認識しています。「体もその感覚も自分そのものであると勘違いしている」という思い込みを月イチでリセットしてくるイベントなんではないんでしょうか。医学的には「男だったら死んでいた」らしいので、アイデンティティとして、(結合性) 双生児であるよりも、女性であることが先にきてもおかしくないんじゃないの?と思います。女性の台詞としては違和感が残ります。

視点を変えてみると、単生児であることと(結合性) 双生児であることの違いと、男であることと女であることの違いの距離を測りかねている一文にも思えます。親族や看護師を除けば、女性だからといって話が通じている描写はありません。 (工場のシーンでも同僚女性には自分たちの身体的特性は伝えていない。)
何らかの共感があり得たとしても、あくまで相手の辛さを自分もわかる (相手にわかってもらえるわけではない) という一方通行な共感になってしまいます。この種の共感を瞬はもっていそうで、杏はもっていなさそう。まぁ、あまりにも自分の状況が特殊すぎるので、人の辛さを理解できたとしてなにが嬉しいのだ、という話ですが。
単生児/(結合性)双生児という対立を、男/女という二項対立で置き換えようとしてしまうのは、双生児の気持ちがわかっていない可能性があります。

ところで、「相手は自分のことはわかっていないが、自分は相手のことがわかっている」という自意識に正のフィードバックが働くと、とてもエラソーまたは卑屈な人になりそうです。内に秘めたるものがありつつも、そつなく振る舞えている二人は良いコンビだと思います。

「そんな当然のことが、単生児たちは自分の身体でもって体験できないから、わからない。」
本書は語りが多い小説ですが、(結合性)双生児 という存在は、一個人の中の意識/無意識という対立で語られてきた問題を、意識/意識の問題に置き換えるためのギミックとしての役割を果たしています。テーマとしては、精神分析か、「他人の脳をハッキングするデバイス」といったSF的な道具立てで語られてきたものだと思います。
引用パートの最後の一文に「自分の体でもって体験できないから」とあります。自分の体というものがあり得ない、と散々喋ったあとなのでもっとなにか違う表現はなかったのか、と思いました。(「」でくくるのは野暮ったいのでやめるとして) ほかに適当な表現が浮かばないので、こう書くしかないのかもしれません。だとすると、意識/無意識を語る行為と、文法上の要請が密接に関係することによって生じた言葉の綾として検討すべきことのように思います。 (が、今回は見送ります)

その3 自己とつながり

自分だけの体を持っている人はいない。みんな気がついていないだけで、みんなくっついて、みんなこんがらがっている。自分だけの体、自分だけの思考、自分だけの記憶、自分だけの感情、なんてものは実のところ誰にも存在しない。いろんなものを共有しあっていて、独占できるものなどひとつもない。他の人たちと違うのは、私と瞬はあまりに直接的、という点だけだった。自分たちが特別でないと認めると、サンショウウオは物音を立てずに通り過ぎていった。

杏 p88

色々考えこんでいた杏ですが、自己解決したようです。よかったね。

その4 物心の発見

長い引用です。この本で唯一「無意識」が出てくるシーンなんじゃないでしょうか。これから意識を獲得していく瞬と、痴呆が進んで意識を失っていく祖母が対比された美しいシーンだと思います。

生まれてから五歳まで、わたしは一言も話すことができなくて、周りはわたしの存在に気がつかなかった。名前もなく、親ですらわたしの少し横に話しかけていた。そうやって無視され続けて、杏がわたしを見つけ出した頃には幼稚園の卒園まで半年を切っていた。
周りが私の存在に気がつかなかったのと同じように、わたし自身も当時、自分が存在しているとうまく感じられなかった。身体は杏に動かされるもので、感情も杏が表現するもので、「わたし」を実感させるものはなにもなかった。
(中略)
幼稚園の頃、月に数回ある母の夜勤の夜は、同居していた母方の祖母トシが杏を寝かしつけた。母と違い、祖母に寝かしつけられると杏はすんなり寝た。杏が先に寝たことを確認すると、わたしはごそごそと体を動かしてみた。いつも自動で動いている体を自ら動かすのは奇妙な感じがした。他人の人肌で温まった服を着るような、不快ななじまなさがあった。
(中略)
当時、唯一わたしが声をだしたのは、夜中に布団の中で祖母のまん丸い目に大笑いした、あの時だけだった。笑うと体の隅々に自分が行きわたる感覚があった。細胞の一つ一つまでわたしが染みわたっていくと、ようやく自分が今ここにいると実感できた。杏が眠ってから自分が眠るまでの十分間、その間だけ自分の存在が生の実感として確信できた。

瞬 p113,114

「わたしはごそごそと体を動かしてみた。いつも自動で動いている体を自ら動かすのは奇妙な感じがした。」
人体に寄生した生き物の感想文のようです。瞬は、祖母にいたずらをしかけて、驚いた祖母をみて笑うことを繰り返し、自らの意識を獲得していきます。
実は、引用2の直後で杏は「自分だけのものとして使い込むことによって彼らの意識は脳だったり、心臓だったり、一つの臓器とむすびついてしまうようだ」と言っています。結合性双生児である杏は、「一つの」に重点をおいているわけですが、「使い込むことによって」に注目すると、このシーンが対になっているとわかります。
というのも訓練による意識と身体の結びつき、は瞬がやってきたことなわけですね。夜中に10分だけ体を動かしていくことで、自分さえ自分の存在がわからなかった状態から、杏に自分を発見させるまでにもなる。杏が、健常者を「単生児」として見くびっているのは、素直に読むと単生児をバカにしているためなのですが、瞬の宿主として、乗っ取りを恐れているためではないかと思うわけです。飛躍でしょうか。

杏が「無意識」という言葉を使わないことと合わせて、この小説の本質的なテーマだと思うのですが、これは今後の宿題としてこの記事はここで終わりにしたいと思ます。

おわりに

読んでくれてありがとう!!!


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