【試し読み】織部泰助『死に髪の棲む家』重版記念 冒頭特別公開!
髪が口に入ったら死がやってくる――。
第44回横溝正史ミステリ&ホラー大賞<読者賞>受賞作『死に髪の棲む家』が、角川ホラー文庫より登場!
本記事では、発売1週間での重版決定を記念し、大ボリューム試し読みを特別公開します。
物語の冒頭を、どうぞお楽しみください。
あらすじ
『死に髪の棲む家』試し読み
死に髪
その老人は明らかに死んでいた。
顔を左にねじむけて、うつ伏せに倒れており、その首には執念深い蛇のように、ぐるりと黒い縄が絡みついている。
しかも恐ろしいことに。
その縄は、ひとの毛髪で出来ていた。
――彼女だ、彼女に違いない。
禍々しい死体を囲うようにして、青ざめた人々が密めきあっている。
――しかし、これが本当に、彼女の仕業だとしたら。
怪しい囲いのなかで、ひとりの青年がいう。
――しなければ、ならないことがあります。
皆、はっと息を吞むと、悍ましい死体を見下ろして、誰もが口々に囁く。
まるで念仏のように。
――死に番を、しなければ。
と。
幽霊作家
――そもそも、始まりから可怪しかった。
ある日の昼時のことである。
いまだ残暑の厳しい九月の中頃、アパートの近くにあるうどんやから出た私は、ふと胸ポケットに入れている携帯が、着信を拾っているのに気づいた。
タイミングわるく、ポケットからつまみあげたとき、すでに着信は切れていたが、私は画面の通知をタップした途端、ギョッとした。
画面が瞬く間に不在着信の履歴で埋め尽くされたのだ。
ざっと三〇件以上。うどんを食べはじめて勘定を支払うあいだの、ほんの十分ほどで、この件数である。親の訃報でもこの量はあるまい。
着信者はすべて神田宏一とあった。
(げ、神田さんかぁ……)
私は頭をかいた。
彼は八年前、K社主催のミステリ&ホラーの公募作から、私の『奉眼』という怪奇探偵小説を拾い上げた編集者で、それ以来の付き合いであった。
それゆえに作家として恩義を感じているが、反面、作品に対する考え方の違いで反目することも多く、『奉眼』を出して以降、小説家として一作も刊行できていないこともあって憤懣やるかたなく、ごくごく偶に安いカップ酒で深酒をした日など、SNSで彼に対する不満や暴言を書き立てることがあった。
昨夜もまた、そんな日であった。
しばらく私は顎を撫でながら、態の良い言い訳を考えてみたが、それも面倒になって、掌の釣り銭と一緒に携帯をポケットに突っ込んだ。
が、それを咎めるように、また震える。
おそるおそる抓みあげると、やはり神田宏一である。
「……はい。出雲です」
『ようやくですか!』
観念して電話に出ると、勢いのある声が飛びだした。
『先生、いまどこ!』
「はあ」私は後ろを振り返った。「うどんやの前ですけど」
『どこの!?』
「西区の、姪浜駅南口にある――」
『福岡ですね!』
私はうどんで膨れた腹を撫でながら、どうやら𠮟責ではないらしいぞと察した。
それというのも、普段の彼のまくしたてるような話し方とは違って、どこか舌がもつれているような、動揺めいたものが伝わってくるのだ。
なにかありましたか、そう私に問われると、神田は打って変わって静かな語調でいう。
『先生、今すぐ祝部村に向かって下さい』
「しゅくべむら?」
一瞬、彼の口から発せられた地名が般若心経のように聞こえた。やがて不確かな音が、福岡県みやま市にある『祝部村』の形をとると、私はすぐに彼と同じ動揺を共有した。
「まさか、許可が下りたんですか!?」
『ええ、ええ!』
電話口だというのに、神田がビリケンさんのように微笑むのが分かった。
『匳金蔵の自叙伝のオファー、正式にまとまりました』
快挙とも呼べる報告に、私はひゅうっと口笛を吹いてみせる。
匳金蔵。
その名前は、いつも畏怖と共に呼ばれた。
特徴的な鷲鼻に、落ち窪んだ眼窩からのぞく三白眼。
目に映るものすべてをうっすらと軽蔑しているかのようなその男は、高度経済期の始まりと共に現れるや否や、瞬く間に九州の造船業を席巻した。ずば抜けた経営手腕は、石炭採掘事業に始まり、製紙業、不動産業や情報・ソフトウェア事業にまで及び、一代のうちに九州一円でその名を知らぬ者は居ないと言わしめる匳グループを作り上げた。
いわば戦後経済史の生き証人であり、数々の経営者が手本とする大人物。
多くのひとが成功の秘訣をもとめ、その人となりを知りたがった。
しかし、本人は成功の秘訣はおろか、出自や経歴に至るまで一切語らず、そればかりか、壮年といえる歳から福岡県の祝部村という辺鄙な土地に引きこもった厭人家としても有名であった。
それだけに、待望の自叙伝である。
私も二つ返事で依頼を引き受けた。
だが、嬉嬉として承諾する一方で、当然のことながら、
――彼が、いまさら自叙伝を?
という疑念は尽きない。数年前、書店で斜め読みした経済誌の記事の隅に掲載されていた、あの睨みつけるような狷介な顔貌には、余生を愁うその一端すら窺えなかったというのに――
『あと自叙伝っていう態ですが、文章は先生にお願いします』
「ということは、幽霊作家としての依頼ですね」
『ええ、言わずもがな、この件は内密に』
神田はささやくように言う。
神田氏がしきりに私に連絡したのも、つまりはこのためだった。
流石の金蔵老も齢九十を超えて、自ら執筆するのは酷らしい。
誰か代筆者を、あけすけにいえば幽霊作家を寄越せという注文に、金蔵老の気が変わらない内に祝部村に急行できる物書きを血眼でさがしていた編集部は、代筆者の実績があり、また日夜暇を持て余している福岡在住の私に白羽の矢を立てたというのがことの次第であった。
私はすぐさま荷物をまとめると、九州新幹線に飛びのった。
金蔵が居を構える祝部村は、みやま市のひどく奥まったところにある。
筑後船小屋駅と新大牟田駅のあいだ、唯一みやま市で停車する触戸駅で下車すると、そこからさらに市営バスに揺られること一時間、猿吼という峡谷をぬけて雉森隧道をくぐって、犬尾という村落に着いた。祝部村はここから、さらに車で三十分かかる。
出版社はこの犬尾に、宿泊地として蓬荘という旅館をおさえていた。
「……また、なんとも」
とうに日の暮れた午後七時。
ようやく見つけた蓬荘は、どこをどうみても只の民家だった。
「ごめんください」
建て付けの悪い玄関戸をひいて、廊下の奥に呼びかける。
もう一度、ごめんください、と声を投げてみるが、やはり返答はない。
(本当にここか?)
波打つような土間に、歴史を滲ませるように黒光りする柱。突き当たりに見える古簞笥にいたっては取っ手がふたつほどない。だが、胸ほどの高さのある古簞笥の上には、太宰府の民芸品である木うそや黒電話にまじって、筆で『蓬荘』と記された和綴じの宿帳が置かれている。
まず間違いなく、ここは旅館蓬荘なのだろう。
とりあえず宿帳の脇に置かれたボールペンを手に取って、数行しか埋まっていない真新しい紙面に自分の名前を書き加えようとした。
そのときだ。
――じりりりりん、と。
目の前の黒電話が鳴った。
ひっそりとした旅館に、ベルの凄まじい音がひびく。
これだけひびいているのに、旅館の従業員は影すら見せない。
一方、黒電話を鳴らす人物は、私がいることを見越しているかのように、執拗に鳴らし続ける。――無視をするな。お前はそこに居るのだろう。鼓膜を破るような音で、延々と叫きたてる。
そのあまりの脅迫的な五月蠅さに、私は耐えきれず受話器をとってしまった。
「……もしもし?」
『もしもし出雲さんですか? ほんにお迎えできず、相すいません』
「もしかして、蓬荘の方ですか?」
恐ろしい妄想に反して、電話口から聞こえてきたのは拍子抜けするほど明るい女性の声だった。どうやら隣町に住んでいる母親がぎっくり腰になったらしく、急遽車で駆けつけたため、旅館を空けてしまい申し訳ないという謝罪の連絡だった。
私は胸をなで下ろした。まるで黒電話から恐ろしい運命を告げられるのではないかと、ひとりドキドキしていただけに、むしろ平凡な女将の声を聞けただけでホッとした。近々匳家から迎えが来ることを伝えていたので、先んじて私の泊まる客間を教えてもらうと、通話を終えた。
「客間は二階か」
私は持って来ていたキャリーケースをかかえ、玄関近くにある階段をのぼろうとした。
すると、ふたたび黒電話が鳴る。
女将が何か言い忘れたのだろう。そうおもって受話器をあげた。
「はい、出雲ですけど」
『……出雲、秋泰先生ですか?』
私はすぐに受話器を摑み直した。
電話口の相手は女将ではなかった。
彼女は匳家の使用人の小山田であると名乗った。何でも自叙伝の代筆者が祝部村に滞在するなら、村はずれの蓬荘を拠点にするだろうと当たりをつけて、電話をしたという。
そして彼女はまた、
『急ではありますが、本日は屋敷にはお越しにはならず、蓬荘に逗留して戴きたく』
と、いう。
「へえ」
『ありがとうございます。――それでは』
それだけ言うと、小山田は電話を切ろうとした。
私が慌てたのは言うまでもない。「へえ」とこたえたのは「へ?」という驚きと「え?」という戸惑いが渾然一体となって出たゲップのようなもので、唐突に申しつけられた急な逗留を承諾した訳じゃなかった。
「なにかあったんですか?」
『それは――』
言い淀む声色で察した。彼女はすぐに通話を終えたかったのだ。
今にも受話器を下ろしかねない彼女を必死にとどめて、強いて説明を乞う。
すると観念したのか、やや要領を得ないながらも、つい一時間前におきた不審な首吊り自殺について、おずおずと話してくれた。
軒先では、陰気な雨が降り始めたところだった。
胡乱な老客
昨晩の訃報から一晩明けた昼過ぎ――。
私は匳家からの迎えを待つため、蓬荘の軒先に出ていた。
空はいまだ陰雨の名残をとどめて、辺りからむっと土の匂いがする。新しい取材先に出向くときは、いつも微熱のような興奮が宿るというのに、今回ばかりは、風邪の引き始めのような悪寒が、たえず全身を這っていた。
ほどなくして、山向こうから一台の車がやってきた。
昨晩から降りつづいた雨のせいで、足の踏み場もないほど泥濘んでいる道路に、ミントグリーンのビートルが停まる。そして面長の学者然とした青年が運転席の窓を開け、気さくに手を振った。
「辺境の地へようこそ。どうぞ後ろへ」
見たところから三十歳ぐらいだろうか。さっぱりと切った短髪に彫りの深い顔立ちで、黒いVネックのシャツに皺のよった白衣を羽織っている。
「僕は桂木直継。祝部村のはずれで、父と一緒に医者をやっている」
後部座席に乗り込むと、彼は運転席から身を捻って、握手をもとめた。
「まさかこんな片田舎にミステリ作家が来るとは」
「私のことをご存じで?」
「すまない。噂を耳にした程度で、作品を読んだ訳じゃないんだが」彼は申し訳なさそうに肩をすくめた。「ただ僕はミステリ小説が好きでね。診察の合間によく読むんだ。だから一度、ミステリを書くひとに会って、話してみたかったんだよ」
それからミステリ談義に花を咲かせるまで時間はかからなかった。私は古今東西の探偵小説を読み漁り、その関心は刑事捜査や法医学まで及ぶ好事家だが、直継も話題に出したそのすべての作品に彼なりの論評を加え、それが一々、ミステリマニアの私を唸らせた。――だからだろう。ミステリ好きの私たちが揃っていながら、直近に起きた不可解な自殺について等閑な態度を取り続けることは苦痛でしかなかった。
「変に思われるでしょう?」
ゆったりとハンドルを切りながら、直継が口火を切った。
車は緩やかにUターンして、ほの暗い竹林の奥に進んでいく。
「え?」
「昨日、自殺者が出たっていうのに、翌日には何事もなく自叙伝の続行だ」
「ええ。まあ」
正直なところ、自叙伝の企画は頓挫するだろうと思っていた。
しかし朝方になって、ふたたび小山田から昼過ぎに迎えをよこすという連絡が届いたのである。
「自殺した人物について聞いているかい?」
「簡単にですが」私はいう。「匳家になんら関係のない、身元不明の老人だとか」
昨晩、小山田を怯えさせたのは、まさにこの不可解な自殺だった。
直継は、僕も聞いた話だがと前置きして、奇妙な事件を話し始めた。
「昨日の朝方だそうだ。灰色のハンチング帽を目深にかぶって、薄手な青のカーディガンを羽織った老人が、屋敷の門の前で亡霊のように突っ立っていたらしい」
彼に気づいたのは匳屋敷の嘱託医として、毎朝匳金蔵の診察のために屋敷に訪れる桂木直継の父、桂木直治だったという。
彼の父は、不審者にしか思えないその男を怪しんだが、そのまま放置する訳にもいかず、用向きを尋ねた。
すると男はあろうことか、匳金蔵に取り次げとのたまったのである。
「よく招き入れましたね」
「まさか! 当然門前払いだ。それでも男は居座った」
「ですが、名無しの老人は――」
「そう、屋敷のなかで死んだ」
「誰が、彼を屋敷に?」
「他でもない匳金蔵だ」
「え!?」
到底信じられない話だった。厭人家として知れ渡る彼が、こころよく胡乱な老客を招き入れるなど、冗談にしても笑えない。
直継もよせた眉に共感を示した。だが実際、直治を介して来客を知った金蔵は、特に気分を害した風もなく、不審な客人を招き入れたという。
「金蔵さんの古い友人でしょうか」
「分からない。理由は一切明かさなかったらしい」
「なら、その客人が自殺した理由も?」
「そうだな」直継は唇をひん曲げた。「心当たりというほどじゃないんだが……」
「何か気になることでも?」
「その不審な老人だが、客間に通されてしばらくすると、悲鳴をあげたらしい」
「悲鳴?」
「滅多にない金蔵の来客とあって、屋敷の人々は口々に詫びつつ、何があったのか尋ねたそうだ。だが老人は口を緘したまま、ひどく怯えた目つきで、駆けつけた面々を睨んだらしい」
「何があったんでしょう」
「わからない。ただ、その場に居た翠子ちゃん――金蔵さんのお孫さんがいうには、茶菓子として出した饅頭の咀嚼物が床に吐き捨ててあったそうなんだが、何でもその吐き捨てられたもののなかに、ながい黒髪がまじっていたらしい」
「……髪の毛、ですか」
食べ物に髪の毛が入る、それだけなら不潔なだけで、他愛のない話ではあるが、それを聞いていた私は、全身に鳥肌がたつのを感じた。
というのも昨晩、偶然にもまったく別の方面から、口に毛髪が入りこむという怪異の話を耳にしていたのである。
『そういえば、祝部村について、ひとつ、面白い話がありますよ』
使用人の小山田から胡乱な老人の首吊り事件を聞いたあと、私はすぐにスマホで、神田に電話を掛けていた。
むろん内容は、匳金蔵宅で起きた怪しげな自殺について。
それにより自叙伝の企画が頓挫するかもしれないという一報だった。
神田以下、K社編集部は蜂の巣を突いたような大騒ぎになったが、さしあたって彼等に出来ることはなく、結局「費用はこちらが出すから、粘り強く蓬荘に逗留して、匳家からお呼びがかかるのを待て」という命令が、私に下されていた。
その時は、まさか昨日の今日でお呼びがかかるなどと思っても居なかったので、神田氏に、この辺りで暇を潰せそうなものがないかと訊いたところ、そのような興味深い返答が返ってきたのである――。
「面白い話?」
『七、八年前だったかなぁ。実話怪談のアンソロジーを組んだときに、とある方に話を聞いたんです。陰陽図の描かれたベール付きの黒子頭巾に、男とも女ともつかない声の、奇妙な雰囲気のおひとで。なのに名前はムミョウ。ほんと人を喰ったような方でして』
字面を聞くと、妙で無しと書いて無妙。
怪談蒐集家で自らを怪談師と称したという。
『要はホラー系の体験談を蒐集して、記事やイベントで披露するタレントです。随分と話のうまい人で、探偵めいた物言いをしてるのが、よく印象に残ってます。それで、ちょっと話し込んだとき、その無妙先生が、ちょうど祝部村の話をしてたんです』
「ほうほう。それで」
『なんでもその村のとある家では、死者の口に妙なものを詰めるらしい、と』
「妙なもの?」
『死者本人や家族の毛髪を一束』
「それは」私は唾を吞んだ。「なんのために?」
「それがね、わからないんです』
「なんだそりゃ」
私は呆れたが、神田氏は剣吞な雰囲気をくずさない。
『おれも最初は呆れました。が、違う。これはそんな虚仮威しじゃない』
私はふたたび前のめりになった。
大の大人ふたりが電話越しに、こそこそと怪しげな話をつづけていく。
『というのも、この因習、どうやらここ数十年で作られたそうなんです』
「作られた? 誰が。何のために?」
『それが分からないから恐ろしいんじゃないですか。みやま市の民話や祝部村の口伝にも残ってない。祝部村の、その家だけがおこなっている奇怪な因習なんです』
「まるで行き過ぎた家族ルールみたいだ」
『同感です。ただ怪談師の無妙先生は、魔除けじゃないかって、言ってましたね』
「魔除け?」
『無妙先生曰く、悪鬼の類いを退ける方法は二通りだそうで』神田はいう。『ひとつは偉い神仏の力を借りることです。これが一般的ですね。御守りとか、真言とか、あれもようは神様の力を借りるための霊媒や所作みたいなもんでしょう。それとは別に、ひどく珍妙な方法ですけど、悪鬼の目を欺くというやり方があるようで』
「あざむく?」
『たとえば、子供の名前に、変な名前をつけるとか』
「ははん」私はうなずいた。「幼名に不浄である『くそ』の字をあてるような奴か」
『流石、怪奇探偵作家。そういう気色のわるい知識には精通してますね』
気色わるいは余計である。――話をもどせば、その様な名付けは過去に多くの例があって、有名どころでいえば、平安時代の歌人、紀貫之の幼名は『阿古屎』だったという。このように鬼さえ厭う不浄の名前をつけることで、病魔の歓心を買わないようにした。これは名前ばかりでなく、創作物であるが、『南総里見八犬伝』の犬塚信乃は、厄から逃れて、丈夫に育つようにと元服まで女装で通している描写がある。これもまた悪鬼や病魔から大事な長子だと気づかれないように誤魔化した一例だろう。
事ほど左様に、病をはこんでくる鬼の目を欺く魔除けは数あった。
しかしながら、口に髪を詰めることが、どう欺くことになるのだろうか。
この疑問について、無妙はひとつ示唆に富んだ発見をしたという。
『実は無妙先生も同じ疑問をおぼえたようで、一度、祝部村を訪ねたようなんです。そこで二週間ほどフィールドワークをした結果、とあることに気づいたようで』
「とあること?」
『村人はみんな、外で口に物が入ることを極端に嫌がるんです。だから外で弁当を食べたり、水を飲んだりもしない。外では極力喋らない。それでも、ときおりユスリカのような飛来虫、落ち葉、埃なんかが入ることがある。すると決して家に入らず、その場で唾を吐いたうえで、かならず踏みつけるそうで』
「ほうほう」
『ただ、面白いのは髪の毛が入った場合です。こうなると話が変わってくる。口に髪の毛が入った人は、すぐに村はずれにある不浄小屋に入らないといけない』
「不浄小屋?」
『物忌みする小屋とか、言ってました』神田はいう。『小屋といっても枝木を三角に組んで稲穂で葺いた粗末な犬小屋のような大きさで、冬になれば凍死しかねない代物だそうです。そこで一昼夜すごしたあと、翌朝、その不浄小屋を燃やして、口をすすいで、ようやく家に戻る。常軌を逸した畏れようだ。――でね、ここからが面白いんですが、どうもこの髪の毛に対する物忌み、必ずやるわけじゃないんです』
「どういうことです?」
『自分や知人の髪なら物忌みはしないんです。つまり祝部村では、口に毛髪が入ることが禁忌なわけじゃない。どうやら誰か、特定の毛髪が口に入ることが禁忌らしいんです』
「誰かって、誰です?」
『分かりません。ただ、無妙先生がどうにか聞き出したところによると、村人は何者かに《《呪い殺される》》と怯えているようだったと』
「でも某家の魔除けは死者に行われるはず。もう死んでいるのなら手遅れでしょう」
『呪い殺すのが手段だったらどうです? 口に髪を入れて殺した後、殺した相手に憑依するためだとしたら?』
「死者の体を乗っ取られないよう、本人や家族の毛髪をあらかじめ詰めておく、と」
『そうすることで、祝部村の怪異を騙す』
「なるほど」私は納得しつつも、新たにひとつ疑問が浮かんでいた。「だとしたら、詳しすぎやしませんか?」
『え?』
「祝部村の人は《《呪い殺されることだけ》》を恐れている。でも魔除けを行う家は、《《取り憑かれることも》》恐れているんですよね? つまりその家だけは祝部村の怪異について、村人より多くのことを知っている。……もしくは」
『も、もしくは?』
「その家こそ、村の怪異を生んだ元凶なのでは?」
神田は『ううむ』と唸ったきり、返事をしなかった。
神田氏自身、自分が吹き込んだ怪談に鳥肌が立ったのか、そのあと、いつもなら延々と無駄話に興じる彼には珍しく『じゃ、頑張って下さい』と言い残すと、そそくさと受話器を下ろしたのだった。
昨晩、そのような戦慄すべき解釈がもちあがっただけに、私は名無しの老人の自死に対して、穏やかではない気持ちで聞いていたのである。
そして気づけば、その老人が死んだ首縊りの家は、すぐそこまで近づいていた。
車は広壮な武家屋敷の前でゆっくり減速すると、門のそばで停まった。
車を降りた私は、防犯意識の希薄な田舎にあって、高さ五メートル余りある外壁とその上に張り巡らされた鉄条網に圧倒された。門も古刹の楼門と見まがうほど荘厳な四脚門ながら、電子制御を窺わせる配線があり、頭上には防犯カメラがたえずこちらを睨んでいる。
眼前の屋敷に棲まう人物が一廉の人物であることを雄弁に示す外観に、たえず気圧されながらも、やはり改めて思わざるを得ないのは、この屋敷を訪れて、わざわざ自殺した老人の心中だった。
なぜ名無しの老人は、この屋敷で自殺したのか。
毛髪は何かの呪いだったのか。
そしてこの怪奇な謎たちが、はたして一つの妄執として織り込まれるとするならば、それはどのような正体をしているだろうかと、ひとり唸りながら、ちょうど屋敷の境を跨ぎこしたとき、まるで透明な壁に阻まれたように、びたっと身体が強張った。
私は咄嗟に直継に背をむけると、恐る恐る口内に指をいれる。
ぞろりと。
唾液にまみれたそれが、ぬるりとでた。
ゆうに五十センチを超すだろうか。
私や直継のものとは比較にならないほどながく、一本が絡みあっているそれは――。
見知らぬ毛髪だった。
匳屋敷
匳屋敷の門前で、私は取り憑かれたように嘔吐いた。
もたれかかった柱の下には嘔吐物が小さな水溜まりをつくり、そこに見えるか見えないかの大きさで、ほどけた毛髪が浮かんでいた。
息を整えるまで、しばらくかかった。
「僕がかけあって、今日は中止にしましょうか?」
彼の申し出に、一も二もなくすがりつきたかった。
だが、すぐさま私の現代的な、物分かりのいい理性が反駁する。
これは偶然だ。まったくもって偶然なのだ、と。
「いいえ。もう大丈夫です。車酔いですから」
結局、車酔いだと誤魔化した。直継の医師としての目は決して私の主訴を信じているようには思えなかったが、こちらの意思を汲んでくれたのか、それ以上問い質すことはなく、一緒に門をくぐった。
(……これが、あの匳金蔵の屋敷か)
先の体験が尾をひいてか、眼前の屋敷から黴菌のような近づきがたい不快感を覚えた。
かといってその古屋敷の外観には、恐ろしい物語をほのめかすようなものは何ひとつなかった。荒れ果てた空き家でも、零落した社殿でもなかった。村はずれの丘にある、広い土地を有している小金持ちの屋敷でしかない。格式ある入母屋造りで青い甍が整然と並び、掃き清められた玉砂利の庭には、雪見灯籠と、紅い寒椿の蕾が冬を待っている。
しかし、得体の知れない悪寒は絶えず爪先からのぼってくるのだ。
私の恐怖を知ってか知らずか、長くのびた、我々の影の上を烏が嘲笑うように掠め飛ぶ。玄関には、割烹着すがたの女性がひとり、ぽつねんと待っていた。
「出雲秋泰先生、お待ちしておりました」
女性が頭をさげる。
「匳家で使用人をさせていただいております小山田多恵です」
(小山田……、電話の)
年齢は五十代半ばだろうか。電話口の対応から、線の細い、神経質そうな人物を思い描いていたが、実際に会ってみれば、小太りの女性で、太い眉に力があり、頑固な意思のつよさがうかがえた。
「ではこちらへ」
小山田に促されて、私は屋敷に足を踏み入れた。
磨き上げられた桜の無垢材が、靴下の下から、ひんやりとした感触を与える。廊下は塵ひとつなく、玄関から屋敷の突き当たりの扉まで、まっすぐ廊下が延びていた。
私はふと隣に直継がいないことに気づいた。ふり返ると彼は玄関に立ったままだった。
「僕は夕方の診療があるから。ここでサヨナラだ」
直継は身体をいたわるようにと言い残すと、踵を返して去っていく。
なんら不思議のない立ち振る舞いだが、彼の歩き姿は、どこか急きたてられているように見えた。まるで一刻も早く屋敷から距離をとりたがるようでもあり、危惧すべきことがまだ多く匳屋敷に残っているのだと、暗に仄めかすようでもあった。
私は玄関から最も近い、右手の客間に通された。
部屋は八畳の和室で、右手に袋戸棚を備えた床脇と床の間がならび、秋を感じさせる芒や女郎花が、古めいた大笊に活けてある。
あとは時代のついた一人用の座卓と四隅に房のある菫色の座布団。そして向かいの壁に開けられた小さな丸窓――まるで風情のある独房といった感じである。
「それでは私はこれで」
小山田は引き留められることを嫌がるように、さっと頭をさげて、母屋のほうに去っていった。
あとは不気味な静けさだけが残る。
「……厄介なところに来てしまった」
荷物をおいて、剃り残しのある顎をポリポリと搔く。
幽霊作家業の片手間に祝部村の奇習を調べに来てみれば、こちらから探し回るまでもなく、あちらから奇怪な出来事が矢継ぎ早にやってくる。さらに屋敷の人々はよそよそしく、何かに怯えているように振る舞っているのだ。
「極めつけは髪の毛だ」
いまだ口腔には、誰ともしれない毛髪の舌触りが消えない。
――呪われたのではないか。
一瞬、無妙の仮説がよぎった。
今はまだ、偶然だろうと笑い飛ばせるが、それもいつまで続くか分からない。胡乱な客の自殺が生じたこの家には、どこか真っ当な思考を乱す怪しい雰囲気がただよっているように思えてならないのだ。
まるでそう。底無しの沼に手招くような――。
こっち、こっち。
私はギョッとして周囲を見回した。
幻聴は妄想の友人であるが、それにしても声が鮮明すぎる。あるいは幻聴というのは、これ程までハッキリとしたものなのだろうか。私はみっともなく狼狽えたが、その若々しい女性の声が近づくにつれ、それが生きている人間の声で、窓から漏れていることに気づいた。
「やめたほうがいい。お客さんに失礼だ」
別の涼しげな声もする。私はひそかに窓のほうに近づいた。
「噓。そんなことを言って、ついてくるじゃない」
「翠子が粗相を働かないか、心配で」
「それも噓ね。本当はあたしと同じで、覗きたくてウズウズしている癖に。いいわ。折角だから最初は譲ってあげる」
そういって声のボリュームを下げるが、残念ながら遅すぎる。
恐ろしかった妄想が煙のように消えると、かわりに悪戯心が湧いてきた。――よし、ひとつ驚かしてやろう。私を散々おびえさせた匳家に対する意趣返しに、窓から覗き込もうとする不埒者にむけて、わっと大声をあびせてやろう。
そう思い立って、窓のほうに身をのりだした瞬間、私は声を失った。
丸窓には、ひとりの青年が一枚の絵画のように収まっていたのだ。
穏やかな顔立ちで、柳眉の下におさまる涼やかな二重の瞳。
鼠色のタートルネックに白いシャツを羽織っているだけなのに、それだけでずっと見ていられるのは、青年のもつ両性を併せ持ったような神秘的な気品だろう。肌も雪花石膏と見紛うほどきめ細やかで、うすく青い血管が走っている。
しかし、もっとも目を引くは、その嫋やかな髪だ。
黒髪の癖のないシャギーボブは、どんな天鵞絨も凌駕し、美の代名詞たる絹がその身を恥じて隠れうるほど艶めいている。頰にたれる髪を摘まむだけで紙幣を積み上げるに足りる価値があるだろう。
どれだけ堪能しただろう。私は陶然として彼を鑑賞していたが、彼をおしやって現れた、もうひとりの可憐な乙女の登場によって、この感激は強制的に幕をおろした。
「うわ!」
驚く乙女は明るい髪色の丸顔で、人好きのする面立ちだった。
年齢は少女と称するには歳を重ねているが、いまだ抜けきれないあどけなさが愛嬌となる若々しさがある。
「君が翠子さん?」
「あら。あたしのことをご存じで?」
「そりゃあもう。会話が丸聞こえだったからね」
「それは自己紹介の手間が省けました。ですが改めて――あたしは匳翠子。どうぞ、お見知りおきを」
彼女の辞書に『物怖じ』という語彙はないようだ。驚いてもすぐに立ち直って弱味を見せまいとするその肝の太さは、若いながら感心してしまう。
事前に読み込んだ資料によれば、たしか十九歳を迎えたばかりだ。
「私は出雲秋泰。君のお爺様の自叙伝を担当することになった者だ」
「出雲、秋泰」
翠子の後ろに佇んでいた青年が名前を反芻する。
彼は私の視線に気づくと、すっと姿勢を正した。
「申し遅れました。セツです」青年は眼差しを柔らかくしていう。「セツは雪とかいて雪です」
「ああ、たしか君は……」
「ええ、十三年前に養子としてこの家に来ました」
彼は気負うことなく言う。
金蔵には蔵子と金代という二人の娘がいるが、どちらも長い間男子を産まず、古い格式に囚われていた匳家は、長女蔵子の子供として、親類筋からひとり養子を取った。この突然の出来事に、世間は匳グループの後継者となった十歳のシンデレラボーイに注目し、金蔵の隠し子であるという噂がまことしやかに囁かれていた。
だが雪をみるかぎり、匳家の跡取りとしての自負は感じられず、増上慢になるどころか痛々しいほど謙虚だった。
またいじらしいのが翠子の反応で、彼が『養子』というや、ひどく顔をしかめた。彼らは年が近いこともあって互いを「雪」「翠子」と親しげに呼び合い、家族としての親愛が垣間見える。そこに大人の利害関係の影は見えてこない。
私はすっかりこの二人が好きになっていた。
どうやら二人とも普段は大学生として村外に出ており、翠子は福岡市の私立大学の日本史学科に、雪は東京の有名国立大学の西洋哲学科に籍をおく秀才でもあった。
だが、必ずしも椋鳥として都会にあそぶ訳でもなく、長期休暇中は祝部村という鳥籠に収まることを義務づけられているという。
今季の夏季休暇も修行僧のごとく俗世と切り離された山村に逗留して、若い身空で漫然と時間を空費するのかと来てみれば、奇怪な老爺の自殺が出来して、恐怖を覚える一方で、探偵小説的な興味が湧いているらしい。
「なるほど。それで覗きに来たのか」
私は合点がいった。
「遅れてきた客人ほど、怪しい人物もいないからな」
「あら違います」翠子は妖しく微笑む。「あたしたちは幽霊の痕跡を探しにきたのです」
「幽霊の痕跡?」
「食事は運ばれまして?」
「いや、まだだ」
私はそういって首を振ったあと、はたと思い出した。
名無しの老人の咀嚼物に異物がまじっていたという目撃談は、もとは翠子からの伝聞ではなかったか。私はあらためてそのことを尋ねると、彼女は神妙な顔つきで頷いた。
「ちらりと見ただけで、すぐに小山田さんが片付けてしまったから自信はないのだけど、あれは、たしかに女の人の、ながい黒髪でした」
「……それが幽霊の痕跡だと?」
「だってこの家には、髪のながい幽霊が居るのですもの」
「なんだって?」
私は咄嗟に雪をみた。これが翠子の冗談なら、雪が自重をもとめる言葉のひとつやふたつ掛けるものだと思った。だが、彼の雪のように白い顔は、幽霊譚の信憑性を裏付けるように、うっすらと青く、怯えた色をうかべる。
青ざめた兄のとなりで、翠子は囁くように語った。
「あの日は、去年のこれくらいの時季でした。お爺様の体調が思わしくなく、それでいて主治医の老先生が腰を痛めて、かわりに直継先生が急遽駆けつけてきた日でした。お爺様の診察がおわり、用心のため、直継先生はこの客間屋敷にお泊まりになったの。――それで、その、あたし、ちょっと暇になって、直継先生のところに遊びにいこうと思ったんです。あの方はほら、博識でいらっしゃるし、よく学会に出席するために市内に出掛けて、様々なことを学ばれているから」
「なるほど」
私はこの微笑ましい感情をあえて言葉にしなかった。
彼女は直継に好意を抱いているのだ。恋する乙女の、ちょっとしたイベント。
それが母屋屋敷と客間屋敷をつなぐ渡り廊下に差し掛かったとき、まったく別の物語に差し替えられたという。
「時刻は夜の八時ぐらいでした。母屋から渡り廊下に出た途端、中庭の池泉の上に、ぼんやりと人が立っている気配がしたんです。この辺りは街とくらべて、夜はぐっと暗くなりますから、目をこらしても、輪郭ぐらいしか分かりません。でも確かに誰か居る。池の上に立っている。そう思って、渡り廊下の電灯を点けました。ですが渡り廊下の電灯は随分古くて、柱の陰にあるスイッチをつけて十秒ぐらいしないと完全に点灯しないから、完全に灯りきるまで、あたし、じっと目をこらして、その影を捉えつづけていたんです。
黒い影は段々と明るくなる渡り廊下から遠ざかるように、池に身を寝そべらせるとゆっくりと足から母屋のほうに潜り込んでいきました。そして完全に電灯が灯ったとき、その影は、もう顔が床下に潜り込む寸前で、ほんの一瞬しか見えませんでしたが――」
彼女はその貌を見たという。
「ながい、ながい髪の女でした。貌を髪の毛で隠していましたけど、その僅かな隙間から見えた額は、古い油紙のように黄ばんで、覗いていた目は、じっとこちらを睨んでいました。そしてその髪は明かりに反射して」
翠子は長い睫毛を震わせる。
「紫に艶めいていました。ちょうど客人が吐きだした髪のように」
荒唐無稽だと揶揄する声は、私の身体のどこからも生じなかった。
むしろ全身の産毛が逆立つほど戦慄した。
――私の口に入った毛髪は、その怪異のものなのか?
――もしそうなら、私も名無しの老人と同じく、自殺してしまうのではないか。
ふたたび妄想が呼びかける。
段々と息がほそくなり、重苦しい感覚に取り憑かれそうになっていると、母屋のほうからすたすたと誰かがやってくる。その人物は私のいる客間の戸口にたつと、「失礼」と一言のべて、遠慮なくがらりと襖をあけた。
戸口に立っていたのは、初老を越えた白髪の老人であった。
老人は、白いシャツにカーディガンの装いで、物珍しそうにこちらを覗いていた。金蔵が一介の物書きのもとに出向くはずもなく、匳屋敷の香盤表から割り出すに、彼は桂木直継の父で、翠子から老先生と呼ばれている匳金蔵の専属医、桂木直治だろう。
「お待たせしましたな。金蔵さんがお会いになるそうだ。……どうされましたかな。窓のほうになにか?」
「いえ。お気になさらず」
私は冷汗をぬぐいつつ、取材用の機材を手に取る。
先程まで窓から覗いていた兄妹は、私の土壌に不安の種を播くだけ播いて、すっかり姿を晦ましていた。
離れの主
「紹介が遅れました。わしは金蔵さんの専属医をしている桂木直治。あなたを屋敷まで案内したのが不肖のひとり息子です」
客間からでると、桂木直治は気軽に握手を求めた。
それを受け、その掌から感じる頑健さに驚いた。医者の不養生という慣用句とは正反対な、矍鑠たる老医師である。
「専属医といっても、ただの村医者だがね」老人は飄々という。「昔はこれでも大学病院でブイブイ言わせとったんだがな。老いてくると、都会の忙しなさに耐えられなくなって、よろこんで村医者の座に収まっている次第だ。まあ、わしも随分働いた。酸いも甘いも味わった。思い残すことはもうない。あとは骸となるだけだ。ならば誰が喧騒の中で死のうや。老境に達すれば存外ここも居心地がいい」
老いの陰りを感じさせないほど、直治は随分とおしゃべりな老人だった。
私は彼の案内のもと、廊下の突き当たりにある扉を開けた。
すると、さっと視界がひらけ、十五メートルほどの長い渡り廊下が、母屋屋敷までまっすぐ延びていた。それがまるで橋のように映ったのは、廊下の下に、池泉が流れていたからだろう。
(ここが、幽霊の出たという池泉か)
流水式の池泉は、広い中庭に涼しげな景観をつくっていた。
むかって右側の庭に、ひろく池泉がその水面を夕陽に輝かせ、左に向かうにつれて小川のように幅が狭まり、そのまま庭の左側をながれ、塀の下の排水口に流れていく。
私はおのずと幽霊が逃げこんだという右側の水面に目がいった。大きな楕円をえがく池は幅一メートルほどの水路に繫がっており、その水路は母屋の右端に接していた。
「ハトバというのです」
直治が気を利かせて、池泉の構造を話してくれた。
「はとば?」
「山上の川の水を家にひいて生活用水にする、古い建築様式です。母屋屋敷の奥に池がありましてな。そこから台所の下に水を引いて、野菜を洗ったり、洗濯に使う。無論、今では水道がありますから、ただの景物のひとつですが」
「なるほど、初めて見ました」
「元々、この家は樋番の詰め所でしてな。江戸の頃、この屋敷の奥にある池から取水する水門の管理をしていた、その名残でしょう」
私は改めて、池泉を観察した。
水は笹舟がゆっくりと進むぐらいの速度で流れ込んでいる。もしこの池泉に人が浮かんでいたとして、流れに逆らうように、自然に母屋側の水路に滑り込むことはないだろう。
そうなると、やはり怪異が――。
「怪異?」
心でとなえたつもりが、口に出ていたらしい。いぶかしむ老医師にどう説明しようかと慌てふためいていると、彼は得心が言ったように頷いた。
「翠子くんの話だね」
「ご存じなんですか?」
「ご存じもなにも、この家では有名だからなあ。あの髪長幽霊は」
「髪長幽霊?」
「この家は古いですからな。幽霊のひとつやふたつ、柳の陰から現れてもおかしくない」
直治はあっけらかんという。
「それに幽霊といえば、長髪でしょう。番町皿屋敷しかり、お岩さんしかり。わしも長年生きてきたが、短髪の幽霊ってのはちょっと聞いたことがない。ときに家鳴りが幽霊の跫音に、ときに梢の震えが女の声に聞こえても、まあ、こんな夜闇のふかい鄙びた村の古屋敷だ。当然と言えば、当然でしょうなあ」
古老にそう言われてしまえば、私も納得せざるを得ない。
幽霊など、先入観と錯覚のマリアージュだと、彼はわらう。
「それで自叙伝の聞き取りのことなんだがね」
「ああ、すいません」
直治医師に話を向けられ、私は喫緊の問題に立ち返った。
匳金蔵は御年九十の大台である。インタビューで留意すべき事柄はいくつもあった。
我々は取材方法の最終確認を行いながら、母屋屋敷に入った。
母屋屋敷は、江戸時代の遺構を残すように、指定史跡のような純然たる日本家屋であったが、もとが水門の管理屋敷であったからか、住居というより施設の趣きがつよく、角に当たることなくまっすぐ廊下がのびている。
直治の先導のもと、私は廊下を歩いていたが、途中四つ角にさしかかったとき、不意に私の左半身に冷たい風が吹きつけた。
「あの、こっちには何が?」
「え?」
まっすぐ廊下を進もうとしていた直治は、虚を突かれたように立ち止まった。
私が指さしたのは、何の変哲もないL字に折れている廊下である。
右側はのっぺりとした板の壁で、左手には取っ手のついたスライドドア――おそらくトイレだろう――と、和室がひとつある。冷気はどうやら、その和室から、ひゅうひゅうと洩れ出ているようだった。
「……何もありませんよ。ただの仏間です」
かすかに狼狽が見えた。
「あの、インタビューとは関係ないんですが」
私は昼なのに寝静まったような屋敷を見回しながら、かねてより感じた疑問を尋ねた。
「自殺された方の御遺体は、もう警察に引き渡したのですか?」
自殺とはいえ、死者は身元不明の老人である。
死因に不明点がなくとも、公僕のひとりやふたり、屋敷にうろついて然るべきなのに、その影はひとつとしてない。
「それは近々」
と、直治は素っ気ない返事をする。
彼の意外な返答に、私は目を丸くした。
(近々だと? まさか通報もしていないのか?)
前をいく老人の背中が、突如として得体の知れない薄気味悪さをまとう。
「さっきは立ち話が過ぎました。はやく行きましょう」
直治はそういって私を急かした。
彼はあきらかに私をその場から離れさせたがっていた。私はその仏間に誰がいるのか、今の会話でおよそ見当がついたが、尋ねるのも恐ろしく、いずれ見る機会もあるだろうと、自分自身を納得させて、彼の案内に従った。
まっすぐ進んだ廊下には、左右にみっつ、都合六部屋が並んでいた。直治曰く、この六部屋は住人の私室だという。その全てにドアノブがあり、ざっと見る限り、客間より一回り大きい。
匳家の私室を通り過ぎ、T字路に差し掛かると横に延びる縁側から、この村の水源とも呼べる取水用の池が見渡せた。
ひろく澄み渡った池は、家一軒が入るほどの大きさで、水面は清らかにキラキラと夕陽を反射させていた。私たちはその美しい水面を横目に、廊下を左に折れて、屋敷の北西の角にたどりつく。
すると右手に道幅の狭い通路がつづく。
左右をガラス戸に挟まれた通路で、その先には、小さな庵が建っている。
方形屋根に、苔色の土壁が囲う小さな住居。
金蔵が起居する庵は、離れ小島のように屋敷から切り離されていた。
四方を幅のせまい縁側とガラス戸で囲われて、欄干に係留された落葉拾い用の小舟が舳先で柱を小突いている。オールがないところを見るにもう使われていないのだろう。
「金蔵さん。来ましたよ。入っていいかい?」
すると庵の奥から低く、重々しい声がとどいた。
「よい」
直治が庵の板戸をひくと、三和土だけの狭い空間があった。
その空間は、まるで金蔵用の納戸である。痰の吸入器や車椅子、杖をいれておく長細い陶器に、処方された薬が詰めこまれたプラスチック製の収納棚などが、壁際にみっしりと積まれていた。
襖をあけて、さらに奥。
踏み込んだ金蔵の棲み家は、さながら洞穴だった。
池側に開いた採光窓は小さく、唯一の室内灯も笠のある古い電球ひとつ。
左手前の壁には勝手口もあるが、茶室という意匠を整えるだけの飾り戸で、庵全体が翳っている。
立志伝中の人の居室としては、いささか拍子抜けだが、そもそも過疎地に居を構える人物である。物欲とはかけ離れた生活空間なのも納得できた。
「よく来られた」
閑居の主人は、博多織のカバーをつけた文庫本を読んでおり、私が来るとじろりとこちらを見据えた。
「儂が匳金蔵だ」
初めて眼前にまみえた齢九十の財界人は、暗がりの樹にとまる老梟を思わせた。
特徴的な鷲鼻に、落ち窪んだ眼窩。
藍染め絞りの単衣を着た金蔵は、古樹に衣を掛けたように窶れていたが、その眼差しは、戦中戦後の混沌を生き抜いた、したたかな鋭さを失っていなかった。
だが、不思議と経済誌でみせた厭人的な印象も受けない。
古い幽霊画は博物館でみれば一幅の絵に過ぎないが、丑三つ時、寺の講堂で手燭でもって鑑賞すれば、絵の陰翳からおどろおどろしさが滲みだすように、匳金蔵という画も場所によっては、また異なる風采をあらわすのかもしれない。
自己紹介が済むと、金蔵に促され、向かい合うように座った。
金蔵は私の経歴や郷土のことを尋ねたあと、目顔で本題を促した。私は慌ててスケジュール帳をひらき、日程の確認から始めた。
「取材の時間ですが、明日の午前十時から正午までの二時間で宜しいでしょうか」
金蔵は了承したように頷く。老医師も隣で太鼓判をおした。
屋敷で起きた事件に鑑みて打ち合わせ通りにいくまいと思っていただけに、思いがけなく仕事が進んでいく。
いや、不気味なほど進んでいる、というべきか。
なにせ彼等は、屋敷内でおきた老人の不審な自殺を警察に通報していないのだ。さらに私の不安をふくらませたのは、打ち合わせの合間合間に、金蔵と直治の見合わした視線の中に、人を謀ろうとする冷たい悪意の色が、ちらちらと垣間見えたことだ。
「では。明日からよろしくお願いします」
無性に居心地がわるくなり、早々とこの場を辞そうとした矢先、まるで逃がさぬとばかりに金蔵が口をひらいた。
「問題はない。だが」
「なにか?」
「折角来たのだ。折しも外は逢魔刻」
厭な予感がした。小さな丸窓から暮色が差し込む。
茜色の照射は庵にいる誰かを照らすこともなく、かえって庵の闇を強める。
影にかくれた老人はいう。
「されば古老の怪談をひとつ、どうか聞いてくれるか」
立ち去るべきだという直観が、そっと背筋を撫でた。それにも拘わらず膝を進めたのは、幽霊作家に留まることを良しとしない三文作家なりの自負だった。
「…………お願いします」
怪しげなものからインスピレーションを受け、作品に注ぎ込めば、三流の誹りから脱せるかもしれないという期待もあった。まして怪談と名の付くものに飛びつく習癖が、私にはあるのだ。
金蔵が唇を舐めると、戦後混乱期におきた奇怪な怪談を語り始めた。
銭を生む羅生門
「儂がまだあなたより若く、街に焼夷弾の爪痕が生々しく残っていた頃の話だ。
戦争が終わったとはいえ煤煙の匂いがそこらじゅうにつきまとって、誰もが等しく飢えていた。儂も例にもれず飢えて、闇市の買い出しや米兵の靴磨き、ときにゴロつき染みた荒事など、灼けた福岡で糊口をしのぐために何でもした。
意外に思われるかも知れないが、もっとも稼げたのは募金活動だった。草新会という傷痍軍人団体に加盟して、日がな一日、街角で募金を呼び掛けるのだ。
儂は日劇の主題歌や戦時歌謡をうたって注目をひいてみせた。なかでも『露営の歌』はすこぶる反応がよかった。歌詞は戦意昂揚を謳うものではあるが、悲惨な戦地で奮って戦わんとする兵士の歌は、瓦礫の山で必死に生きようとする人々の心を打った。シャッポを被った紳士も儂の歌を聴いてはらはらと泣き、隣にいた足ひとつの元陸軍大尉もしきりに目頭を拭った。
そんなある日、ひとりの男が奇妙な話を持ち掛けてきた。その男は、背は儂よりやや低く、歳もひとつ下でいつも制帽をかぶっていた。不思議と顔が双子のように似ているから、募金を募るときは儂の弟として振る舞った。
なるほど、戦地から命からがら帰還したが、家は焼夷弾で焼け、家族は死んだ虚しさに、せめて菩提を弔おうと募金をつのる傷痍軍人の兄弟という題目は、金を払う側の同情をすこぶる喚起させた。いつしか私はその男に一目置いていた。
その男の名は小松といった。
『キンさん、今、この日本には金になるものが余りにも多く捨てられていると思うよ。これを拾いあつめて、それを元手に草新会を脱退しようじゃないか』
小松という男は見た目こそ小僧だが、なにかしら学のあるような風韻があった。
当時どこからともなく岩波をもってきては黙々と読み、英語も堪能とあって、進駐軍相手に探偵小説を書こうとした男だ。そんな小松がもちだす話だから進駐軍がらみだろうと思っていたが、儂はそれをきいて慄然とした。小松はこういった。
『羅生門だ。死体の髪を盗むのだ』と」
「髪の毛を……」
よからぬものが背中を這い上ってくる。
まるで黒く糾われた毛髪の綱が、なにやら奇態なものを引き寄せるかのごとく。
「あの当時、東宝劇場をはじめ舞台劇が息を吹き返していた。すると舞台カツラ用の毛髪が必要になってくる。小松はそれだけではなく、大社の祭事用カツラや婚礼用のカツラ需要が高まるのも見越していた。
小松はいったよ。疎開地がいい。都会の髪は砂塵にまかれて手入れもしてない。髪油を使っていても大概は豚や赤犬の脂をしぼったもので悪臭がする。対して田舎は昔から様々な美髪剤があった。泔水といって米のとぎ汁で梳いて、髪の栄養補給や癖を直したり、さねかづらの蔦の粘液で髪の艶や養毛効果を促進して、垢落としにしたりもした――とな。小松は大いに語った。髪に大して偏執的な知識があった。そして当時はまだまだ土葬がおおく、死体は焼かれず残っていた」
「墓を、暴いたんですか」
「そこも小松の恐ろしいところだが」金蔵はいう。「やつは納棺前の死体から盗む計画を立てていた。ヤツはいったよ。『野菜は摘み立てがよく、人毛は死にたてがいい』と。そこでやつは九州地方のとある村の古めかしい風習に目をつけた。そこには『死に番』という風習があった」
「死に番?」
「山奥の番屋で死者とふたり、寝ずの番をするという変わった弔いだった。その村はひどく穏やかな山村で、村人は平然と我々を招き入れた。あの頃は都会の人間が、着物と食糧を交換しようと、たびたび農村を訪れていたから、さして物珍しくなかったのだろう。我々は農作業の手伝いとして、その村に厄介になった。一ヶ月ほど経ったころだ。村から死者がひとり出た。お悔やみに向かいながら死体を確認すると、死体は綺麗な長い髪をしていた。美しい人だともおもった。小作りで、目元のすずしく、近所の女学校に勤めていた女性を思い出させた。高等女学校を出たてで、名前さえ知らなかったが、いつも髪を一結びにして、校門の前で、生徒たちに輝くような笑顔で挨拶していた。儂はそんな淡い初恋相手に似ている乙女の髪を、根こそぎ刈り取るべく、死に番を願い出た」
「縁もゆかりもないお二人に、よく村の人々は任せましたね」
「都合の良いことに女性に身寄りはなく、終戦後も村に身をよせていたよそ者だった。もともと親類を頼って来たものの、はやり病で死に絶えたという。それにいまの人には実感がないかもしれんが、昭和という時代も、迷信や俗信に対して、ゆるやかに距離をとっていた時代なのだよ。村人たちも『死に番』の習俗に懐疑的で、血縁者なら諦めがつくものの、無縁仏を弔うために死体と一夜を共にするなど願い下げだったのだろう」
ただそんな迷信から距離をとっているはずの村人たちだったが、死に番を執り行う夕暮れどき、村の取り仕切り役であろう四十ぐらいの男によばれて、死体の寝かされている仏間で、二人は決して破ってはいけない禁忌があると脅しつけられたという。
「絶対に死に番で眠ってはならない――。そう再三、念押しをされた。それがあまりにも執拗なので、儂だったか、小松であったか、なぜ眠ってはならないのか、と喧嘩腰にそう尋ねた。すると、その仕切り役は、さも当然のように、こう言いよった」
死霊が憑く、と。
村人たちは世の迷信を笑いながら。
死霊が死体に取り憑くという村の迷信を信じていた。
「儂たちがゾッとしたのは言うまでもない。さらにその仕切り役が、仰向けの乙女の半身を起こすと、その長い髪をもって、くるくると死体に簀巻きのように顔ばかりか胴まで巻きつけて、巨大な黒い蚕のようにしてしまうと、もはや儂等は一言も口を利けなくなっていた。
それを背負うと思うとさらに憂鬱だった。番をする人間はひとりという取り決めはなかったが、これは内々示し合わせて、小松より上背のある儂がすることにしていたのだ。まず初めに儂が背負子をかつぎ、中腰になると、小松と仕切り役とが、その黒い蚕となった女をのせた。背負子がずっしりと沈み込むと共に経帷子に染みついた焼香の臭いがぷんっと臭った。よく魂を語るとき、死んだ人間は普段より僅かに軽くなることを持ち出す輩がいるが、あれは噓だ。実際はむしろ重くなる。死というものが、肉体に取り憑いている分の重さが、たしかに死体にはあるのだ」
死に番は完全に日が暮れきったあとに始まったという。
金蔵は葬列に付き従い、村外れの小さな里山に誘われた。
「そこは一見、山には見えなかった。ただの深い林叢地で、鳥居がひとつあった。高い木立は風もないのにざわめいて、きいきいと得体のしれない鳥獣の声が木霊する不気味な森だ。彼等はそこを進めという。案内役を名乗りでる者はひとりもいなかった。角灯を渡され、ただ事前に、どのような道があるか、簡潔に伝えられるだけだった。それ以外、一切何も言わない。否、言うつもりは毛頭ないのだろう。儂はもう、進むしかなかった。
角灯を手にすすむその林道は、異界めいたものがあった。踏みしだく下生えは、靴底にみどりの液汁をぬりつけ、野放図にのびた枝は、そのこわばった指で服をひっかいてやまない。森の臭気が、じっとりと肌にまとわりついてくるのも辟易した。
歩き出して、数分も経たないうちに、儂は息を切らし始めた。背中ごしに沈黙する死体が、心を蝕むせいもあろうが、じつのところ、儂はゆるやかな勾配を登っていたのだ。暗闇坂と呼ばれているその坂は、坂だと気づかないほどの緩やかな勾配で、坂の只中にさしかかると、鬱蒼としげる雑木林が天を覆って、昼でも夜のように暗くなるという陰気な坂だった。
すすむにつれて、自分の輪郭が闇に包まれていくのが分かった。いまではもう、角灯が照らす自分の前腕だけが、にゅうっと闇にうかんで、ともすれば、そのままぷつりと切れて、するすると奥に飛んでいくかのようだった。儂はふと、日本神話にでてくる黄泉平坂という径も、あるいはこのようにゆるやかな勾配で、このようにうす暗かったのではないだろうかと、そのとき戦慄と共に考えたものだ」
真の暗闇に人は耐えられないのは、あるいはそれが埋葬に似ているからかもしれない。
濃密な闇は、原始的な死の観念を甦らせる。
金蔵もその死のような闇黒をひとり、奥へ奥へとすすんでいったという。
「異界めいた径も、しかし長くはつづかなかった。坂の途中には、ひろく円形の広場があって、砂金をまいた星空が、中央に明かりを落としていた。明かりのおちた中央には、奇妙な十六角形の講堂が建っていたのだ。――十六角堂。死に番を行うものは、もれなくその講堂に入り、教えられた弔詩を唱わなければならない。しかも唱うだけではなく、頭上に描かれた神々に拝みながらというのだから、弔いというより祭事めいている。
直径にして六メートル弱はあろう拝み堂は、戸をしめきるとあれほどうるさかった森の怪音がぴたりと止まって、そのかわり、儂の荒い息が微かに反響していた。
儂は一生懸命、弔詩を唱ったと思う。念仏や般若心経などろくすっぽ知らない当時の儂にとって、憶えさせられたこの弔詩だけが唯一の邪気祓いであった故に、それはもう高らかに唱った。
唱い終えると講堂の北側から出てふたたび暗闇坂をいく。そうすると程なくして、今度は修験坂という急勾配の坂が待ち構えていた。その坂たるや、足を滑らせれば命の保証ができないほどの傾斜で、死体を背負いながら登るのは一苦労だった。
そしてようやく辿りついた番屋は広場の主の如く、その中央にあった。番屋は零落した社殿のように荒れ果てて、中に枕飾りと逆さ屛風のほかに、死者を座らせる籐椅子がひとつあるだけの見窄らしいものだった。儂はそこに彼女を座らせると、ようやくひとごこちついた。
番屋には、それらとは別に、座布団と心ばかりの糒と味噌、そして謝礼がわりの御神酒が置かれていた。闇市で売買されているような目潰しの密造酒じゃない。真っ当な米でつくられた御神酒だった。
人とは現金なもので、さっきまで錯乱しかけていたというのに、酒にありつけば肝も太くなり、死んだ女を肴に酒を飲んだ。股の奥に潜りこんだ一物も、吞めば出るぞとばかりに尿意を催し、番屋の隅にある木板をずらして、屎尿用として掘り下げられた大穴に小便をした。
こうなると稲生物怪録の平太郎よろしく、何にも動じない心持ちになる。あとは鋏をもった小松の到着をまって、ふたりして『羅生門』の老婆としゃれ込むまでだ。
だが、そのとき、ふと死体の顔が見たくなった。
初恋の女性を思い出したからかも知れない。死体の乙女が本当に面差しが似ていたのか、なんとなしに検めたくなったのだ。グルグル巻きにされた髪の毛を身体からほどいて、前髪を左右に分けてやれば、ほうと溜息がもれるような美しいおなごの顔があらわれた。こづくりで涼やかな目元。丸っきり同じというわけでもなかったが、やはり顔の印象に重なるところがあった」
懐かしむ記憶のなかの女性を、彼はその死体にみた。
微笑ましい記憶だった残滓。――それが段々とずれていく。
「儂は思い出のなかの彼女を甦らせていた。日差しに目をほそめる仕草。儂の歌を褒めてくれた声。ときおりみせる困惑のひとみ。おはようございますと呼びかける声。その声が、儂をみた途端にか細くなるとき。街で男にしなだれかかる痴態。ひときわ高くなる声色。脂粉をこらしたあばたの肌。儂をみつけて、きつく睨む目、不機嫌そうに毛先を撫でる指先。――そして戦後、カフェーに立っているあの姿。しだいに、しだいに、思い出すたびに、むくむくと湧いてきた激情は何だったのだろうか。
性欲――と一括りに言ってしまえばそれまでだが、あるいは憧憬を踏みにじられた怒りともいえるかもしれない。気づけば、儂はその死体を足と左手で押さえ込み、髪の一房を右手で強引に摑み、力一杯に引っ張っていた。ぶつり、ぶつりと肌から毛髪がちぎれていく感触をてのひら全体にかんじながら、毛髪を一房、たしかに毟りとった。
いつだって、しまった、と思うのは、ことが済んだあとだ。死体は衝撃で床に転がり、うつ伏せになった彼女の首は横にねじれ、前髪から覗いた双眸が、いつの間にか半眼のようにひらいて、女の、あの怨みがましく見つめる視線を、儂にじっと向けていた。
右手に握り込まれた毛髪は乱暴に毟ったせいか、ふるい筆先のように無様であった。だがそれでも尚、女の髪の毛は艶やかで、気品をしめすように、焰のあかりのもとで暗くも艶やかな紫色にかがやいていた。乱暴な衝動が収まれば、すぐに打算が働くのが儂の常だ。儂は小松に隠れて、その髪を死に番の駄賃としてふところに収めて、女をもとの状態に戻してやると、あらためて酒を飲み直した。
なんとなく、女を背に飲むのは憚られた。
儂は睨みつけるように対坐した。女の目蓋はふたたび閉じたというのに、その長い睫毛が小刻みにうごいて、ふたたびあの怨みがましい半眼をみせるのではないかという妄想に駆られていたのだ。
しかし、その睨み合いも長くはつづかなかった。酒瓶の底をふるわせて残りのひとしずくを舐めとろうとしていると、段々と夢うつつになった。そしてはっと気づけば、夜のとばりがあがっていたのだ。
慌てて髪を切らなければと思い立ち、いや鋏をもっているのは小松であるから、彼が来なければ仕事はできないと思い直した。
そもそもアイツはなぜ儂を起こさなかったのか。
問うまでもなく、髪を独り占めして逃げたのだと思い、慌てて死体のほうを向いた。
小松にあらかた盗られたとはいえ、まだこめかみの毛ぐらい残っていないか。まろぶように籐椅子の脚にすがり、女の死体を見上げた。だが、そこには見目麗しい艶やかな髪の乙女の死体はどこにもなく――かわりに小松が死んでいた」
「小松さんが!?」
「しかも死に方は凄惨だった」金蔵はいう。「奴の口には毛髪が詰めこまれ、首にも執拗に巻きついていた。そのとき脳裡に去来したのは、言うまでもなく、村の仕切り役が再三言っていた禁忌だった。寝てはならぬ。寝てしまえば――」
「死霊が憑く……」
金蔵はこくりと頷いた。
「どんな死霊が憑くかも分からない。しかし、儂には、髪を毟りとった、あの女の霊魂がふたたび肉体にかえって、儂を襲いにくるのではないかと思えてならなかった。儂は朝陽から隠れるようにして、すぐに逃げた。――それから数年がたったあと、人づてにその村の話を聞いた。すると、ときどき、村には長い髪の女が現れて、夜な夜な人を訪ね歩くという。そして村の人々は彼女を恐れて、もし口に髪が入れば物忌みをするようになったとも」
「なんだって!?」
私はあわを食って、問わずにはいられなかった。
「死に番の習俗があった村というのは、まさか、この祝部村なのですか!?」
うなずいた金蔵の双眸が鈍く光る。
「あったではない。今も息づいている」
「あ」
私は立ちどころに理解した。
直継がすぐに辞した理由も、直治が言い淀んだ死体の処遇もここにつながるのだ。
金蔵が、こうして怪談を語り聞かせていた訳とはつまり――。
「今夜、あなたに『死に番』をしてもらいたい」
(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)