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【音楽聞いて散歩しながら考えたことシリーズ】陰鬱な潜水とEmilie Simon(11月2日)

今日は起きた瞬間から、雨が降っていた。
二度寝、三度寝、と幾度か目覚めては寝る行為を繰り返した午前十時半頃、ふとんをなんとか剥いでのそのそと起き上がる。窓から見える空は灰色で、曇っているせいかあたりは薄暗い。もうすぐ冬が到来するということで、部屋の中もうっすら寒い。きっと外はもっと寒いに違いないだろう。

そんな周りの様子に引きずられるかのように私のテンションも真ん中の下くらいで、すぐに何か活動を始める気にはならなかった。動き出すにはちょっぴり気が思い。もう一度ベッドに潜るか、それともたまった洗濯物を回してコインランドリーに持っていくか――その二択を一度頭の中で反芻して、そして最終的にベッドから立ち上がる。「もし明日、雨が降ったら洗濯物を回して、コインランドリーに行こう。そうして、洗濯物が乾くまでの間は"Emilie Simon"を聴きながら公園を歩こう」。それは昨日の私が決めた、今日という日の過ごし方だった。どうせ寒いのなら、どうせ気分があがらないのなら、どうせ動くことがおっくうなら、どうせやる気が出ないのなら――私は内省の海に潜りたい。なぜって、陰鬱な寒い雨の日ほど、自分の心の機微に敏感になれる日はないからだ。そういう、物思いに耽る日があったっていいと、私は思う。

ところで唐突にこのエッセイの紹介をはじめるのだけれど、私は家の近くの公園を散歩しながら音楽を聴くのが好きだ。そういった内容のエッセイにしようと思ってこの個人的な連載をはじめた。が、蓋を開ければ第1回の「クオーターライフクライシスとLucky Kilimanjaro」では、散歩らしい散歩に触れられず、帰宅途中に少し公園内を歩いてみているくらいの話になってしまった。今回以降は、もうちょっと元のテーマである「音楽と散歩と生活」に触れていきたいなと思う。

話を戻す。洗濯物を回してコインランドリーに行って、乾燥機に洗濯物を入れてから私は傘を開いて公園に向かった。雨が降っているので、いつもは親子連れでにぎわっている公園にほとんど人がいない。公園の近くのカフェなんかに立ち寄る人や、雨の中でも果敢にジョギングをしようとする数少ない人と、少しすれ違うくらいである。
私もその「数少ない」側の仲間のうちのひとりとして、"Emilie Simon"を聴きながら公園を歩いてみる。「Végétal」というアルバムの、「Rose Hybride De Thé」、「Opium」、「Annie」、それから「En Cendres」……。陰鬱だけど繊細で美しいサウンドが耳を伝って脳を支配する。この、仄暗くて毒っぽい独特の音楽を聴くたび、まるで小川洋子や彩瀬まるや千早茜の小説を原液で摂取しているみたいな気持ちになる。どこまでも清潔に保たれた秘密の小部屋のような、ちょっとした息苦しさと甘美さ。癖があるけど、好きな人は好き。そんなサウンドを聴いていると、私は深い深い内省の海に沈むこんでしまいたくなる。

そういえば、元々冬というのは人にとって創作活動や内省に向く時期なのだという。冬のどこまでも澄んだ空気が、人の感覚をより研ぎ澄まさせるからだろうか、それとも冬は人を感傷的にさせるからだろうか。わかる気がする。だから私も、今日"Emilie Simon"を聴くことを選んだ。奥深くまで潜水して、もう戻ってこれないところまで行ってしまいたい。そんな気分だったから。もちろん、戻ってこれないところまで行くというのは比喩表現であり、実際どこかに行ってしまうわけではないのだけれど。でも、"Emilie Simon"にはそのくらい、人に特別な思いを抱かせる魔力があると思う。
創作物が存在する意義って、「現実を忘れさせてくれること」「現実との断絶」だと思うのだが、私にとって"Emilie Simon"の音楽はその代表格のような存在だ。現実忘れさせてくれるどころか、「もう戻ってこれなくてもいい」とまで思わせてしまうのだから。

でもそれは、きっとときに音楽が私にとって劇薬であることとイコールかもしれない。二度と戻ってこれなくならないように、また、潜水病にならないように、注意が必要かもしれない。音楽に慰められることがあっても現実逃避の手段となりすぎてしまわないように、これから気を付けたいなと思った散歩だった。安心安全に音楽を聴くために。実生活を大事にするために。ときにはブレーキも必要なのかもしれない。

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